たとえば、音楽のクラシックをおもうとき、ふと疑問だったのは、どうして、名曲というものはあの時代にしか生まれなかったのだろうということ。もし、いまのひとたちが作ったとして何百年か後に同様のクラシックになれるのか。いや、どうもそうではないように思えて、でも、ずっとその理由がさっぱりわからなかった。さきに紹介したお二人の対談集を読みながら、ふと、おもった。ひょっとして、つまり、いい文章も、いいカフェや、いい場所に恵まれたとき、いろいろな偶然の産物がくみあわさってひとりでに、いいものがうちから言葉の連なりとなって生まれることがあるように、時代という、最高の舞台がきっとそのころにはあったのではなかろうか、ということを。恥ずかしながら、高校時代、余りに手抜きの授業をする先生に不快を感じて、そのせいにして、歴史の勉強を放り出してしまったので、これまで、ほとんど中世はもちろん、歴史について知ろうとすることも、その意味を考えてみようともしなかった。いや、それとても、きっと神さまがくれた順番なのかもしれないと、すぐ、能天気におもってしまうわたしなのだが。ともあれ。
わたしのなかで、これはすごい!とおもった一冊に、『博士の愛した数式』がある。数学のすごさ、それは、決して人間の情緒や感情と別にそんざいするものではなく、そのなかの一部にすぎないのだということを教えてくれた一冊。数学の意味を、ほんのわずかだが、でも確実に、これまで気づけなかった視点を教えてくれた一冊だった。そういえば、福井謙一氏の奥さまが書かれた本の中で、氏がひたすら机に向って、数式を書き続けたあと、ひとつのこたえがでたときなどに、どうだこれは綺麗だろ、とても美しいとだろ、としきりにいっていたのが印象に残るとかかれていたのがあった。ひとは、なにがどうといくら理屈やことばを連ねても、結局は、こころが、つまり情緒や感情がしっくりと納得しないといけない。いや、言い方をかえると、納得することを抜きにしてなにもできないのがほんとうのすがた。そう、その対談集に教えられて、これまでのいろいろな疑問符がいくつも、一気に腑に落ちるような感覚を味わった。そうか、だから、ひとまずそういう根気の要る作業をなしに、ひとびとを結束させるための安易な手段として、共通の敵を作る(仮想も含めて)ことが繰返されてきたのか。戦争とは、そういう努力をやめちまった人間が(いや、時代がそうせざるを得なくしてしまったかもしれないということも含めてだけど)、引き起こす愚行なんだ。これまで、平和なんてきっと絵空事にすぎない、と、勝手におもっていたけど、ほんとうの知を幾分でも浸透させることのできる時代が、もし訪れるかもしれないとしたら、ひょっとしたら、平和の意味がわかるひとが増えるのかもしれない。なあんて、ふとおもったのだった。
幸田文さんの著のひとつの、帯のところに、目を惹くフレーズがあった。父親のしつけは、娘への“一生の贈り物”。こころのなかで、大きな鐘がひとつグワァワワンと鳴るように響いた一文でした。父親のそういう厳しさのある本当の愛情に触れることのできた者と、そうでなかったひと。そのことと、いつまでたっても、ひたすら勝負の世界で勝つことへの執念を燃やし続けられる女性との関連は、あるのかないのか、わたしにはわからない。でも。女性が、いろいろな世界を覗いたり、あるいは実際に挑戦もできる、知識も吸収できる時代というのは、そのことだけを見れば、決して悪いことではないのだろう。もともと、ことばを操ったり、おしゃべりで自分をアピールするのは女の子の方が得意である。深夜の番組に、あるアーティストがホストで、壇上で別のアーティストにインタビューするという、確かハリウッド俳優たちへの同様の海外番組と、まったく同じ形態のがある。そのなかで、たしか、矢野キョウコさんとかいったとおもうが、ひとりの女子大生の「世の中、おんなのこはなんだか、損をすることが多い気がして、どうおもって生きていけばいいのか」という主旨の、とても素晴らしい質問に対して、もっとわたしを感心させるこたえが其の方から返ってきた。どこまでいっても、ひとはみな不平等なの。だけどね、わたしはわたしであることに誇りをもてるということ、自分自身の存在そのものをありがたいとおもえることのほうが、(そういう目の前の男だから女だからということよりも)ずっとたいせつなのよ。と。学生時代、似たような疑問があったにせよ、そこまで素直なことばで感じることさえできなかったわたしにすると、なんとも素敵なキャッチボールを垣間見られる瞬間だった。いまは、やっとこれだけの歳月がかかったけど、同じようにだれかに訊かれたら、同じに答えられる気がしている。
おんなにも、おんなの引き際というものがあるのかどうかわからないけど。たとえば、アニカさんのような、スタイルはとても素敵だ。おんなは、かっこよくある必要はない、だけど、素敵に見える生き方を貫くのは、ほんとにたいへんだ、でもとても意味があると、生意気だけどそんなふうにおもっている。たぶんだけど、ほんとうに愛する人に出会えた女性は、社会の中でバリバリ!?することへの意味や魅力を感じなくなるものであるし、それ以上に、自分の仕事にであえた喜びのほうが、ずっと大きくて、それまで、男女共学でまるで目指すものは同じ!みたいに育てられてきた間の価値観が内側から大きく音をたてて、変貌するのを感じるもの、ではなかろうか。学問、勉強、知的教養、そういう、純粋な内なる好奇心は、いつどこにいたって、本を読んだり、友とあったり、いろいろなところをまわったりすることで、いくらでも、磨くことが出来る。外側の壁(いちおう、お洒落とか見栄話とかを指してるつもりです)を、汲汲としたおもいで飾ることばかりに執心することの虚しさを、自然とわかるのではないだろうか。そういえば、女の子が頭がいいのはよくない、というような意味のことをどこかで聞いた気もするが、その意味する親切心はありがたいが、でも、ほんとうの意味では、まったく違うことのようにも思える。なぜなら、それだと、まるで、一生、家の中では知的なことや、勉強をたくさんしたいことを、押し込めて、つまり、情緒に蓋をして残り時間を過ごしなさいということになりはしないだろうか。ことばの通じない人、同じ情感や情緒を感じられないひとと、ことばもなくして過ごせるはずはない。そういう、いちばん大切なことを教えてくださったのが、いつか書いた国語の先生であったり、小学校時代、気持ちというものについて、これまた一時間を費やして教えてくださった図工の先生だったりした。ひとは、気持ちを外して生きられるほど、かなしくはない。つまり、それだけに、希望や情熱を持ち続けられるうれしさをあらためておもう。(ともあれ、おんなのはなしは、いつもながくて、主語や主題を探し当てるのがとても、たいへんですね。すみません。)