始まるということは、終わりに近づくということ。あれから4年がたったのねと、なんだか、しみじみおもう。あっという間だったようでもあり、ほんとうに長かったような気もする。あのころの心境を思い出していた。気持ちを、言うべきか言わざるべきか、泣きそうになるくらい迷っていたというか、言い出す勇気もないまま、でも、たぶん、苦しめちゃうだけかもしれないと、勝手にそうおもって、どうにもできずにいたりもしたような。。。と、書いていると、益々記憶が蘇ってきて、勝手に泣けてきた。


春は、必ずやって来るものだとわかっているから、寒さも、あともう少しとわかると、急にマフラーが名残惜しくなるようなそんな、オヘソ曲がりの心境を愉しむ余裕も生まれるけれど。ひとりのこころは、ときどき、いつかのように、果てしもなく勝手に落ち込んだり、どうしようもなく、ひとり取り残されたような寂寥感におそわれたりもする。ひょっとして、勝手な勘違いだったらどうしようって。もちろん、それでもいいんだと、胸を張れるゆとりをもてるときもあるし、そうでないときもある。たぶん、それがひとなのかな。(ともおもう)。


居心地のいい喫茶店があって。コーヒーの美味しさやお皿の綺麗さもあるけれど。たぶん、それだけではない。行けば行くほど、居心地がよくなって、ますます足が向く。たとえば、書き物ひとつしても、手紙ひとつを書いても、そこで書くと、内容ももちろん、文字のひとつひとつがやさしく書けている。そんな気がする。たぶん、好きというのはそういうことな気もする。理屈ではなく。ただ、居心地がいい。だから、そこにいたいとおもう。たぶん、そんなこと。どこに居ても同じ、ひとはそういうかもしれないが。たぶん、違う。うまくいえないけれど、祈りにも似た想いというのは、たぶんそういうことな気がしている。


それとて、言うは易しで。願いを願いだけでいいとするのは、簡単だが、それを信じて頑張るのは、並大抵の信念ではできない。決して、口に出してはいわずとも、どうしても叶えたい願いがあるということ。だから、頑張れるのかもしれないが。ともあれ。やっぱり、ひとなので、ときには、へこみもするし、いらいらもするし、大丈夫かなわたし、とおもってしまうときもある。むずかしいとおもうことと、むずかしいからあきらめるというのはちがう。なので、こうして、ひたすら、春を待っている。と、いったら、ちょっと不躾がすぎるだろうか。