きょうこそ、さらりときれいに、みじかくまとめよう!っておもいながら、書き始めるのだけどな。いさぎわるいというか、食い意地の張った母のことをとてもいえたものではない。こと、書き始めると、とまらないのだから、ひとそれぞれ、とまらないものが違うだけ、なのかもしれない。転機を迎えるたび、いろいろなことを考える。まぁ、急にむかしが懐かしくなったり。いろんなことを、ふと思い出したりもする。まぁ、人生という名の列車には、たぶん、スイッチバックはなくて、まっすぐまっすぐのぼっているのだろう。ただ、それがちょいと遠回りのひともあるというだけで。寄り道した方がたしかにたのしいのだが…。と、おもってみるか。一難さってまたほにゃららが常だけど、ちょっとだけ、荒天おさまって、ほんのすこし好転、そして好天の兆しがあるような。そういえば、公転があるから、四季があるのだっけ。もうすぐ、こよみは春で、たぶん、少しくらいいいこともあるでしょ。
ひとつのことを考えながら、あたまはさらにべつのことを考えたり、その合間にまったく違う発想が浮かんだり、なにか備忘録のようなフレーズがでてきたり、するものだから、普段持ち歩いている小さなノートは、ほんとに脈略のないことはなはだしい。だから、あとで、どこに書いたか探すのにたいそう苦労する。そのうち、博士の愛した数式の教授みたいに、そこらじゅうにメモをはって、どれがどれだか…なんてことにならないように、気をつけよう。まぁ、忘れるというのはかみがくれたたぶんいちばんありがたいおんけいだから、忘れられるのもひとつのしあわせなのだろうけど。そういえば、このごろ自分がおどろくぽかをあまりしていない。いや、へまだということにさえきづいてないのかもしれぬ。おお、もしそうだとしたらたいへんだ。あわわ、もっと別のこと書くつもりだったのに。これだから、いけませんんんねぇ。
『やややのはなし』。これが、おもしろい。中古ドブックの量販店のたなにさりげなくいた。おもえば、これとて奇跡である。絶版になってる文庫を見つけるのはときに、至難だ。探しているものにはなかなかめぐり合えない(まぁ、ネットというのがあるのでしょうが、そういうので見つけても見つけたことにはならないので)。ところが、さがしてないもの、でも、そのタイトルがずっとこころのなかのいつかほしいリストの片隅にあったりするものは、どんどん目に飛び込んでくるんだな。ときおり、とんでもない希少書が、古いというだけの理由でもっとも安価な棚にあったりする。いや、そこにこそある。正統な、ちゃんとしたお店なら、定価の倍でも文句は言えないものが。懐のさびしい身としては、ありがたいことこの上ないが、そんなだから、いちど足を踏み入れると、とても一冊ではきかなくなる。精一杯こころをおちつけ(ようと努力だけは一応して)、その後の予定をつらつらと思い浮かべ、重量と持ち歩く距離をはじきながら、それでも、片手にもてたらまぁなんとかなるかと、手にしてしまう。ある意味、ありがたいことなのだとおもうが、本のほんとうの価値がなんだか違っちゃわないか、いささか心配になる。そのうちグラム売りになったりはしまいかと。でも、かつてなら引越しのときに棄てられちゃうはずものが、そうして棚に復活できるのをおもえば、決して悪いシステムではないけれど。良書は文庫になれるけど、得てして大量には刷られない。とくに、作品数の比較的少ない著者(あるいは学者さんとか)のものは、そのうち買おうと思っているうち、注文できません、といわれて愕然とする。時を経ても生き残るのは、なににとってもたいへんなのね。そしてまた、あの限定復刻というなやましいことこのうえないフレーズ。懐を覗いては、棚の前でため息のでること。書棚のあいだでは、いろんなおもいが交錯するのだ。(ほらね。また長すぎる一節になっちゃいました。)
あるお店で、驚くほど肌触りのいい綿製品を見つけた。織りが違うし、たぶん素材もちがう。そこいらへんの大量製とは。そのボリュムにすればいささか高めだが、決して高すぎることはない。むしろ、良心的。でも、そのときは、バーゲンの最中で、旅先だったこともあり、手にしなかった。ところが、どうにも頭から離れない。そしてお店に電話して送ってもらった。製造元がわかったので、電話した。あとはどこにいけば買えますか?と。庶民的な町らしく、なつかしい訛りのある声で、ほんまにしんせつにいくつも教えてくれた。おまけに、おかせてもらうセレクトショップを頑張って探してるんですけどねぇ。なかなか既製のブランド店には置かせてもらえませんから、たいへんでしてねぇ。まるで、旧友のように話しされたが、でも嫌味はなかった。ほんとに頑張っている姿勢が伝わってきて、おもわず頑張ってといいそうになった。ひとは、たぶん、そうやって話す中で、なにかが生まれたり、ひろがったりするのだろうな。直接声で伝えるって、たいせつなのね。あらためておもった。だから、なんでもかんでもネットで調べればいいというのがどうにも好かず、なるたけ声で聞くようにしている。すると、案外、そういうひとが少ないせいか、先方はたいてい、とても気持ちよく教えてくれる。あの、コンビニや量販店のレジに立つたび、「(メンバー)カードはおまへん。いりまへん。」と、答えねばならぬときの鬱とした気分とは大違い。いまや、カードの有無を訊かれずに済むのは、よほどちゃんとしたお店か、ファストフード店くらいなものである。なんかがちがうのよねぇ。買うって、もっとこう縁とか、温もりとか、タイミングとかそういう見えない貴重なものと一緒な気がするのだけどな。そういえば、あの素敵な街も、まるでパリかどこかの出張所みたいな風景になりつつあるし。件の著者さんや、池波さんなどがみたら、きっと嘆くだろうな。時代の流れだけはどうにもならないとは、わかっていても。ついつい、古きよきをいいだしたくなってしまう。(あわわ、やっぱり長すぎますねぇ。この一節)