はてさて。にんとも。筆がいちどとまると、書き出すのがなかなかむずかしくなります。まぁ、こころのゆとりが欠けているということなのでしょう。毎日が日曜日、というのは、いいかえると、毎日が月曜の朝の空気でもあるわけでして。つくづく、授業時間があってはじめて、遊び時間が充実するものなのだ、とわかります。それに、古今東西、時間があるときは懐がわびしく、そうでないときは時間がない、ものでして。そのうち、なんとかなる!とはらをくくって、まるで、やっと手にした年次休暇!と同じ気分で、自由時間を満喫できる心意気をもてたら、さぞ立派だろうなぁと、ためいくまいにち。なのであります。ひとは、いくつになっても、ひととふれあい、話をしたり、冗談をいったり、こころおきなく話せる時間と空間がないといけないのでしょうねぇ。いつか、外山さんの本のなかで読んだと思いますが、こころが老いるのは、なにも年齢がいくつになったからというのではなく、こころの成長をとめてしまった時点でもうすでに始まっているのだと。そういう主旨の一文があったことを思い出しました。ささやかでもいいから、なにか願いやおもいがあって、頑張るなにかがあるということが、とてもたいせつなのだと。ひとのこころを支えるのは、やはり、肩書きや名声よりも、もっと身近なふれあい(愛?)や、人柄と教養なのだと。ほんに、そう思います。そういう意味での話をできる友がいるというのは、ほんとにとてもありがたいことなのだと。改めておもいます。なかなか、むずかしいですがね。世の中が忙しくなればなるほど、ひとはそういうことを忘れがちなりますから。


人生は、ひとに自慢したりするためにあるのではなくて、こんなのいやだとずっとおもいながら我慢するのも、やっぱりなんか違う気もして(もちろん、時にはそういう時期も必要ですが)、どうも、我慢すること、それも、想いのための我慢ではなくて、自分だけでは嫌だからひとにもそれを強いたくなるような、後ろ向きの我慢を互いに強制しあうような、そんな我慢はやっぱりなんか違うのではないかとおもうのです。もちろん、わたしの勝手な意見ですが。もっとも、なにがいいのか、そうでないのか、たいていは、ことが過ぎてから気づくことのほうが多いですから、みんなそれぞれになにかをまもるために必死なのだとはおもいますが。どうして、ひとの足をひっぱりたいとおもうのか、正直わからない、なんておもう人間は少数なのでしょうか。いや、ちゃんとそうでないひともきっといるけど、そういうひとは、なかなか目立たないから、そうでないひとがまたそうでないひとを増やしてしまう、みたいなところがあるのでしょうか。ちっとも気持ちのこもらぬ挨拶をして、さ~しましたよみたいな顔されてもどうも違うとおもうわたしは、おへそが曲がっているのかしらね。たとえばいい例がコンビニの挨拶。またお越しくださいませ。本心でもなんでもないのは明白だけど、ひとはみないつしか、こころのこもらぬ言葉の嵐に馴れきってしまっている。そうやって、心の通わぬ会話をすることで互いの安全をはかるみたいな風潮が、ないでもない。サービスの意味が問われているのかもしれません。家庭も学校も、たぶん同じようにみんな悩んでいる。

英語を話したいというひとは多いけど、そんな店員との話ができるかどうかの会話なんてそれこそ電子辞書で充分だし。人生の機微ってなんですかねぇ。どうしてひとは目先のことばかりに争いたがるのでしょうか。たとえば、そんなことを、きちんと自分の言葉で話すのなら、外国語もたいせつだとおもうけど。


どうも、からだが停滞すると、書ける言葉もかようにどんどん軽快さを欠いていけません。わたしのように、付和雷同をよしとしないおへそまがりは、どうしても、居場所がむずかしいのだろうなぁ、やっぱりそうやってかなしい気持ちはあとを絶ちませんが、こればかりはなやんでもどうすることもできず。別に、なにかひとを驚かすようなことを望んでいるわけでもなく、ひたすら、家族を大事にしたいと願うばかりなのですが…。どうも、実践面での苦労が絶えませぬ。まぁ、ひとそれぞれに、なんらかの苦労はやってくるものなのだから、それもひっくるめてわたし、とおもうことで、いるしかないのですけれど。どうも、こうであらねばならない、とか、こうだからこうじゃないとだめ、みたいな、うわっつらのざらざら感のないものばかりを求められるような気もして。深く考えると、どうにもこうにも、となります。自分の人生なのに、ことあるごとに、これがこうだからこうでと、もっともな説明をしないといけないとおもってしまうのも、これまたいたし方のないことなのですが、どうも、ここいらへんの、たぶんたいていのひとは当たり前とかたづけてしまうことごとに、いちいち考えをいれたくなる性質なので。結局は、うまくいえる自信がないまま、なんとなく時にまかせるしかないのだろうなぁ。と、ふがいなく、そしてまた、なんともいえずもどかしいおもいを抱えたまま、ただいる。ということの繰り返しになってしまうのです。なんて、うだうだ、仕方のないことを書いてしまうのも、動くに動けぬところにいるからなのでしょうかねぇ。まぁ、少しずつほぐしていってはみますが。