2010年。さいきん、なにかと日付を書く機会が多いのだが、どうも手が勝手に200と0をふたつ続けて、しまったとなる。1を0にするのはまだいいが、0を1にはちょいと無理があるから、大切な書類などでは、かなり神経をたてていないと、うっかりしょっぱなのそれだけで書き直しになる。これって、たぶん、1999から2000のときもあったのかなぁ。いやぁ、最初の一文字はまだ気をつけやすいが、どうも書き始めてからの3文字目というのは、なかなか曲者である。手が勝手に動くんだもん。これって、これから10年に一度の慣わし?。いやまてよ、ということは、1989から1990にもあったってこと?。う~ん、違うなぁ。やっぱり0がふたつ続くところにどうも書きやすさが潜んでいた気がするのはわたしだけだろうか。まぁ、いいけど。


図書館。田舎の図書館は、午後6時で閉まる。午後5時過ぎに出向くと、残りの30分はほとんどが、貸し切り状態になるのだ。ちょっとした、驚きである。まるで、広いわが書斎のよう。というのは、いささか大袈裟だが、ともあれ、至福の空間、時間には違いない。都会でのひっきりなしに背後に近づくひとを気にする時間と比すれば、まさに天国。まぁ、新刊は少なくも、選択肢も少なくも。そこはそれ。そこでしかない出会いもあって。つまりは、ひとつの恵まれた空間。土地柄か、閉館ぎりぎりに粘るというひとがいないのだろう。これが、別の地方ならまた違う気もする。ともあれ、ほんにささやかな発見。玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。絨毯がひろがっていて脚にも嬉しい。まさに、書斎みたいだ。いちばん奥にあたるところに、たぶん、高い棚のをとるためのスツール(台)なのだろうが、そこに座って、棚の背にもたれて、本を読む。なあんて、贅沢なのでしょう。立ち読みならぬ、座り読みの拾い読み。しかも貸し切りなんて。すごすぎませんか。たまの田舎は案外、いい発見がころがっていたりして。


ぶらさんぽ。『散歩の途中で何か食べたくなって』ではないけど、やっぱりぶらりは、街だからこそできること。買い物だけが街歩きではないのだ。風をみたり、オウライの流れをみたり、はたまた看板を見たり。月夜もまた風情があって。つまりは、行間というか、余白というか、そういう時の流れがまた美しい。人の流れをみたりも、また興があって。急ぐだけが能じゃない。とおもうのだけどな。あえて、駅前でない、というのは、ある意味とても贅沢。歩けるってとても贅沢なのに。歩かなくなるとやっぱり、見えなくなるものがふえちゃうんだろうな。知らず知らずに。車を減らした途端にも、見え方がこんなに変わるんだととても驚いた。風を切って歩くって凄く贅沢なのだとおもう。三上のひとつに馬上があるけど、あれは、風を切っていると自然と頭の中の風通しもよくなるんじゃないかな。いや、あたまより、むしろこころのほうかもしれない。ともあれ。風を感じて歩くと、なにかが動くし、停滞してたものが動き出すきっかけみたいなものを、呼んできてくれるようで。ホッとする。箱の中だけで、アイデアは浮かばないんじゃないかな。それに、ほんとうに残るものは、何にせよ、やっぱり自分の足で歩いて、みつけたものだったりするからな。


散歩で思い出したけど。これ、田舎になると、ちょっと勝手が違うんだな。ひとりというのは、どうにもこうにも。以前も書いたが、とても風景を愛でる気分になれない、というか、どこでどういうタイミングで立ち止まったものか。つまりは、間がとれないのだ。と、すると、散歩というのは都市が生んだ、贅沢な趣味のひとつということかしらん。田舎はそもそもそういうことを必要としない空間なのだろうか。農耕に汗流すこと、それ自体が自然との会話(ときには、厳しいね)になっているということかな。台風は、ときどきやってくるとわかっている。そりゃ、歓迎すべきものではないが、自然の中ではそれが普通なのだ。台風をなくすことはできない。あたまではわかるし、そのための準備はやはりたいせつ。無防備なのと、対策してるのとではやはり違うだろう。でもね。なかには、そんな対策まったく通じないくらいのもやってくる。根こそぎもってかれるみたいな。たぶん、そうなるともうなすすべもなく。ただ過ぎるのを見守るしかない。いや、身の安全を守るだけで精一杯かもしれぬし。でも、そのあとで、こころにひろがるのは、やっぱりやるせなさだろうな。どうしてって、おもってもしかたないのに、むなしさがひろがる。抗いようのない力とわかっても、やっぱりかなしむのがひとで。たぶん、そういうことなんだろうな。なにごとも。そうおもえば、冷静なら腹の立つだろうことも、もっと大きく考えたら、そういう気分にはならなくて。まるで、自分を眺めているような、そんな風になるのだろう。台風の時って。いや、天災のときはみなそうだろう。考えてもはじまらないけど、とりあえずは、ひとまず立ち止まって振り返る。それがひとなのだとおもう。あとは、もいちど、次の実りを目指して、また耕す。ひとも、自然のひとつだとすると、ときに、ひとのすることは台風より酷く荒れたりもする。こともあるのかもしれない。う~ん。だんだん、迷路になってきたので、このへんにしよう。まぁ、いいたいのは、ひろく大きな目でみられるといいなってことかな。


「仮の姿」。古典の出典ははてどこだったか。正確に思い出せないけど。これ、ちょっと不遇かなって、感じるときの、魔法の一滴になる気がする。さっき気が付いたけど。たぶん、ずっとそうかもしれないけど、まぁ、それでもいいのかな、むしろ、案外ぜいたくなのかな。って、思わせてくれるひとことで。もっとも、原典では、さような意味ではなかったら、ごめんなさい、なのだけど。書くことのほかに、できることがあまりないのに、それを糧にしようとしていないのだから、いろいろたいへんになんだろうな。でも、自由をよろこんでいるところもあるから、余計にいけません。先のことなど心配してもはじまらないと、考えてしまう性質がもっといけない。いけないとわかるということと、それをなくそうとしたいかということは、また違うので、いささか厄介である。ひとはそのひとそのひとのものさしで生きてるところがあって。それを敢えて、うまくひとことで切り抜けるには、不器用というよりほかはなく。ふむうむ。もっとも、世が世ならまた違うのかしら。案外、こころで感じることは同じなのかもしれぬと、ふとおもいもする。身分や位を選べなくとも、選べても(そもそも選んでるっていうけど、よ~くみてるとそうでもない気もするし。知らぬ間の縁や運があるようだし。)、こころが感じる満足や不満足って、見える心配とかそういうことと少し違うよな気もして。もっとも、うだうだ、こんなことを考えるのも閑であるからなのだろうけれど。でも、機械に使われるんじゃなくて、考えることって、結構大事だと思うのだけどな。もっとも、それで食べられるかどうかは、別だけど。食べるために生きてるだけじゃ、なんだかせっかくの風景を半分しか見られない気もして。なあんて、屁理屈いっているから、いつまでたっても、キリギリス、なのだろうな。