気分のつもりが、のんびりし過ぎて、そのまま冬眠!という感じになってしまい、いささか反省している。外山さんの随筆に『風の音』というのがあって(昭和63年の刊ですが、わたしは名著だと思います。)、そのなかの“お天気屋”の章で教えられたのだが、日本人はその日の天気に、行動や気分をかなり左右されやすい傾向にあるそうです。たぶん、それは比較的雨の多い風土や、農耕が主のスタイルであることと関係がありそうですが、「天候に左右されることの少ないヨーロッパ人から見ると、日本人が晴天を好むのがよくわからないかもしれない。」のだとか。あ、もっとも、「ヨーロッパの人は雪のある地方は文化が高いと考えているらしく~」、とも、ありましたっけ。
柚子がですねぇ。(唐突ですが。)庭に一本の木があるのですけど。たぶん、わたしが生まれて、田舎に越してきた頃に父が植えたのだとおもうのですが。父がいたころは毎冬、藁で作った雪囲いをしたり、かなり手厚く守ってもらっていて。それが、ことしは例年以上に実をつけまして。たわわ、というのはまさにこのことかという風で。百や二百ではとてもきかなくて。といっても、山椒ではないけど、一般のものよりは少し小さめで。でも、香りも味も間違いなく柚子で。思えば、すごいことだけど、高校の頃、中学時代の国語の先生に差し上げたことがあって…。すごく喜んでもらえたのが、とても嬉しくて。
そういえば、あれから軽く20年優もたっているなんて、ちょっとした衝撃なのだけど。ともあれ、地図でお宅を探して(田舎には昔の電話帳で住宅地図までついているのですねぇ)、そしたらいつ印したのか、訪ねたことないのにちゃんと赤丸がついてて、ちょっとびっくり。やっぱり古民家っていいですねぇ。暮らすということのあれこれを自然に教えてくれる気がする。そしたら、先生が(正確にはご主人が。旦那さんには高校で英語を教わった。)、いつかの時代の西洋のなんとか皇帝も(世界史の授業はちっとも聞いてなかったから、頭文字さえ思いだせない…)、田舎と都会の往復暮らしだった、と励まして!?くださった。そうそう、わたしはその先生に、古典の素晴らしさ、たのしさ、おもしろさを教えてもらいました。
で、おもったのは、庭に木を、それも実の成る木を植えるって、木を通して子どもたちと、いろんな話ができるっていうことなんだ!ということ。(子どもは、下の子と4歳以上離れてるって、ほんとに大きいことなんだな。末っ子はそれだけでもラッキー。これは蛇足。)それに、木のおかげで、こうして時を経ても、たくさんのひとと話のできる機会をもらえる。なんてすごいことなんでしょう。枝にある棘に気を配りながら、実をとっていると、やっぱりいろんな感謝が浮かんでくる。気がつくと自然に。そうだ、たわわになるのはたいてい隔年なのだけど、今度はジャムを作ってみようかな。ふと、そうおもった。
そういえば、『風~』の書には、こんなくだりもありましたっけ。「外を眺めると、冬の景色が美しい。~ ~、どうでもよいことばかりにかかずらわっているのに気づいたりする。かぜは生活の句読点のようなものである。テンもマルもない文章は気味が悪い。かぜひきは、そんな理由を考えて、自分を慰める。」「人を押しのけても何かをしたいとは考えない。意欲に欠けているのである。~ ~ なきごとを言っているのではない。平和を愛するわれわれは案外、冬の季節が気に入っているのである。」
柚子がですねぇ。(唐突ですが。)庭に一本の木があるのですけど。たぶん、わたしが生まれて、田舎に越してきた頃に父が植えたのだとおもうのですが。父がいたころは毎冬、藁で作った雪囲いをしたり、かなり手厚く守ってもらっていて。それが、ことしは例年以上に実をつけまして。たわわ、というのはまさにこのことかという風で。百や二百ではとてもきかなくて。といっても、山椒ではないけど、一般のものよりは少し小さめで。でも、香りも味も間違いなく柚子で。思えば、すごいことだけど、高校の頃、中学時代の国語の先生に差し上げたことがあって…。すごく喜んでもらえたのが、とても嬉しくて。
そういえば、あれから軽く20年優もたっているなんて、ちょっとした衝撃なのだけど。ともあれ、地図でお宅を探して(田舎には昔の電話帳で住宅地図までついているのですねぇ)、そしたらいつ印したのか、訪ねたことないのにちゃんと赤丸がついてて、ちょっとびっくり。やっぱり古民家っていいですねぇ。暮らすということのあれこれを自然に教えてくれる気がする。そしたら、先生が(正確にはご主人が。旦那さんには高校で英語を教わった。)、いつかの時代の西洋のなんとか皇帝も(世界史の授業はちっとも聞いてなかったから、頭文字さえ思いだせない…)、田舎と都会の往復暮らしだった、と励まして!?くださった。そうそう、わたしはその先生に、古典の素晴らしさ、たのしさ、おもしろさを教えてもらいました。
で、おもったのは、庭に木を、それも実の成る木を植えるって、木を通して子どもたちと、いろんな話ができるっていうことなんだ!ということ。(子どもは、下の子と4歳以上離れてるって、ほんとに大きいことなんだな。末っ子はそれだけでもラッキー。これは蛇足。)それに、木のおかげで、こうして時を経ても、たくさんのひとと話のできる機会をもらえる。なんてすごいことなんでしょう。枝にある棘に気を配りながら、実をとっていると、やっぱりいろんな感謝が浮かんでくる。気がつくと自然に。そうだ、たわわになるのはたいてい隔年なのだけど、今度はジャムを作ってみようかな。ふと、そうおもった。
そういえば、『風~』の書には、こんなくだりもありましたっけ。「外を眺めると、冬の景色が美しい。~ ~、どうでもよいことばかりにかかずらわっているのに気づいたりする。かぜは生活の句読点のようなものである。テンもマルもない文章は気味が悪い。かぜひきは、そんな理由を考えて、自分を慰める。」「人を押しのけても何かをしたいとは考えない。意欲に欠けているのである。~ ~ なきごとを言っているのではない。平和を愛するわれわれは案外、冬の季節が気に入っているのである。」