ときどき、ちょっとむずかしいのね。むろん、たいせつだからこその、わがままや心配なのだけど。おんなはついつい調子に乗って、わたしこんなに本読んでるのよ、みたいに、深く考えもせず、いろいろ余計なことまで話してしまって、かえって心配やイライラを募らせてしまうのでしょう。そして、どれも、いつも、後になって気づく。ほんに、かなしいような、でも、ちゃんと言ってもらえてうれしいような。そう、どこまでいってものほほ~ん症が治らない。のが、困ったところです。我ながら。
思いがけずのありきたりの日常がしばし、途切れたところで。でも、悪いことばかりでもなく、こうして時々風を入れ替えるのがたいせつなのかも。もっとも、わたしの場合は、いっさいの誤解を解こうとしないところに、余計な心配や気苦労をまわりにかけてしまう。これが、ほんとにいけないのだけど。ひとりぐらい、ちょっと憎まれっ子(のつもり)がいるほうが、いいんじゃない。みたいな、これまた酔ってるだけかもしれないとんでもない理屈でいたりするものだから。何かと苦労がたえない、のかしらねぇ。まぁ、あながち、変化はいいことの契機だったりするものですから。きっと、神さまの温情だったりするのかもしれないし。
ともあれ。いろんな立場や、境遇のひとたちが心配してくれて。ほんとにありがたい。それぞれに、見方があって、とらえ方もあって。貴重な意見を聞けたりもする。わたしの場合、ありふれた同世代の友達のウエイトが割りと?少なかったりするものだから(何を基準にするのかわからないのですがね。)、ほんとに、幅の広い意見が聞けてうれしいと勝手におもっている。それに、意見というのは、そのつもりでいっていることばよりも、なにげない、別の会話のつもりで話していることに、思いのほか、癒されたり、教訓が隠れていたり、単純に笑えることが実はいちばんの特効薬だったり…、つまりは、どんなことでも、きっと何かになっている、のだろうな。たぶん、事の内容は違えども、みなそれぞれにいろいろ悩んでいる。このままでいいのかな?ってね。でも、二通りのレールを同時に走ることはできないから、だから、そのことで悩んでも仕方ない。んでしょう。
なんだか、面白い展開で、和気藹々とした忘年会をしてもらえて。無理やりのつきあいではない、集まりってほんとにいいものですね。それも、愚痴をこぼすのではなく、それぞれが笑いに変えて話せるって。とても素晴らしい。とおもう。きっと、ひとがひとを自然にかえるのでしょう。もちろん、いい方に。わたしだって、これを書き始めたときからの願いは変わっていないし、それを改めて誇りにも思えるし。それを伝えたくて、こうして書いている。そして、書いていることでまた私自身もたくさんの教えを受けたり、反省したり、元気をもらったり、している。
ところで。年賀状です。池波さんは確か、全員にこころを込めて書くためには5月ごろから準備を始めると、おっしゃっていたけど、ほんにいつも、ギリギリになってしまうのね。そして、結局、やんちゃな言葉しかかけなくて反省する。もっとも、数行しか書けないからこそ、ほんとうに伝えたいことが書けるのかもしれないけれど。。絵を取り入れたのは、亥年の小4からで、以来、受験時などに一時、自分で撮影した写真などにしたときもあったけど、基本的には手書きにこだわっている。なので、枚数限定になる。それを口実に、行き違いになった幾人にかは毎年無礼をしてしまう。これがいけないとも思うのだけど。。中学のときに先生がその年賀状を褒めてくれなかったら、これほど続けられたかどうか…。そして、絵の具売り場の前で、今年使いたい色を吟味するときって、ちょっとだけ嬉しい時間だったりするのですね。ことしは、サムがいなくなった年だからなるたけ地味な色にしたくって…。