ちょっとだけ、しんどい気持ちを抱えながら、帰宅するとメールボックスに一通のカード。ちょうど去年のいまごろ、役場前の小さな広場に冬の間だけオープンするスケートリンクを、一緒に滑ったキッズたちの母親からのメールだった。子どもたちにいつも、カードをありがとう。とてもよろこんでいるわ。ことしは一緒じゃなくて残念ね。お母さんの体調も、わたしの数値の方もどちらも大丈夫だといいね。また、来年会いましょう。ささやかだが、そんなことばがとても嬉しく、胸に沁みる。まぁ、いまの状況が余計にそう思わせるのかな。ともあれ。友からの一通ほど嬉しいものはない。いつも、わたしが鈍感なのと、みんなと同じにするということへの執着がとても欠けているので、いろいろなことがあるみたい。こっちはなんとも思っていないのだが、どうもひとはみな感じ方が違うから、少数派という言い方が相応しいのかどうかわからないけれど。。。たぶん、みんなも必死で生きていて、もうここしかない!と思っているひとからすれば、別にいまは、ちょっと事情があってね…みたいな感じで涼しく(ほんとはとてもやせ我慢なだけかもしれないのに)いるひとが、やっぱり気になるのは当然といえば当然。また、私の気の遣い方が、皆が考えないほどにさらに先まで考えているかと思えば、まったく気が付いていないだけ!のときもあって、ともかく、よ~わからん、というのがやっぱりひとにはストレスなのかしらね。う~ん。まぁ、わたしの努力が足りないのでしょう。みんな自分を守りたいというのは一緒なのだけど、そのやり方が違うから。
なにごとも、何がさいわいで、何がさいわいでないかは、塞翁さんの格言とおなじで、ずっと後になってみないとわからないものでして。一概に、いいことがいいとも限らないし、悪いことが悪いとも限らない。ずっと、拘束続きのひとからすると、自由奔放に映ることがたぶん羨ましいのかもしれないし、自由を満喫しているように見えるひとは、常に、不安や孤独と闘ってもいるわけで。みんな、ないものねだり。とくに、需要と供給のバランスがうまくいっていないようなときは、余計に、そういうことに目が行ってしまうのでしょうね。たぶん、ピンチはチャンスで、チャンスはピンチみたいなところがあるから、ものごとはとらえ方ひとつで、いかようにもなるのかもしれません。さて。まぁ、深く考えすぎなければ、これまでどおり、変わらない姿勢でなんとかなるような気もします。時間がたってみないと、わからないこともたくさんあるはずだし。いますぐじゃないから、全部ダメとか、全部ゼロからとか、そういうことではなくて、もっと、のんびり、今できることを精一杯やってみる。やっぱり、そこにたどり着くのですね。ひとは、そう簡単に、こころを動かせるものではないように思えますし。ときに、ひとは立ち止まると余計なことまであれこれ考えて、自分で自分を動けなくしてしまうものです。もちろん、そういう静止の時もたいせつだとおもいますが。ただ、これまで何をしていたのだろうと、悔いるのではなく、すべてに価値と意味はあって、また、何かのチャンスの契機と、前を向くことが大切なわけで…。なあんて、これらはほとんどいまの自分自身に言い聞かせている気もします。
つきつめると、たぶんどんなひとでも「とりあえず、いま」の連続で、目の前のことに精一杯頑張ることを続けていることには、変わりないとおもうのだけど。あるひとの本にあったように、だれしも、自分自身から逃れることはできないわけで。たとえそれが外国だろうと。環境をいかに非日常に置き換えたところで、つねに自分と向き合うよりないわけで。そういうことを、自然とできるひとと、そうでないひととで、たぶん、ものごとのとらえかたが多少変わってきてしまうのかしらね。はてさて、これとて、ひとまず、には違いないのですが。どうしたものでしょう。いちど、やってみたかったことは、いくらもありますが、ひとまずいまの環境を鑑みれば、それほど無茶なことに挑戦するときでないのは確かですし。こういうとき、ちょっと旅にでもでて、それからのんびり考えましょうか、となってしまうのが、わたしの悪いくせでして…。いえ、そんな余裕はありませんが。やっぱり、はてさて。ということですねぇ。まぁ、なんとかなるのでしょうか。たぶん。。。