前代未聞の見習いというのに逆戻りだそうだ。まぁ、ご随意にとこちらは受け取った。こういうときに、あまり無理な背伸びややせ我慢、それに基づくから元気の発言は、慎まねばならないが、ともあれ、正直、気楽で何より、ぐらいに受け取った。ところが、どうも、ひとがおもうところのいい方の(なにがいいのか、おへそがまがっているのか、どちらがいいとかわるいとか簡単にはいえないとおもっているので)、前代未聞なら恐らく賞賛なのだろうが、そうでないほうの前例をつくる役というのは、なかなか難しい役回りなのだろうか。たぶん、これでもなにがしかの貢献にはなっているはずである。(ひとの意思は基本的に、まったく無駄とおもうことをしないものですから。とくに公の場では。)まぁ。下世話な言い方を憚らねば、見せしめといったところか。こちらは、まぁ恰好いいとはいえないかもしれないが、実質の内容を考えれば、かえって嬉しい、ような気がしないでもない。なにしろ、なにかと厳しい季節である。ひとりでもできることを、ふたりで、それも暗黙の了解で動けるふたりですると、なんて素晴らしい、なんて楽なのだろうと、勝手ながらしみじみおもった。まぁ、この世はみんな仮の姿なんです。そうおもえば、たいしたことはありません。
ひとはとかく、いやひとだけではないとおもうけど、居場所がないととても平静では、つまり健全なこころもようではいられないのだろう。そんな気がする。こんかいのことで、事情を知らない友たちは、ほんとうに親身に心配を寄せてくれた。みな、それぞれに言ってくれることばが、どうか冷静に、落ち着いて。と、ほとんど同じだったのが嬉しいやら、可笑しいやら。やっぱり、わたしは、そんなに短気に熱い!と見えているのね、と。でも、ほんとに気持ちが何より温かくて、嬉しかった。それが何よりの、予定外のこころの懐炉!だったような気がする。ひとの親切に触れられるってほんとにうれしいし、心に灯がともったような感じがする。つまりは、居場所というのも、そういうことの一部なのかもしれませんね。がんばるときに浮かぶひとの顔がある、って、たぶんすごいことなのだろう。それにしても、わたしはどうしてこうも、いつもいつも、こういう役回りなのかしらね。と、書いていたら、わたしの姿を離れたところからみてくれている友人のひとりから、またメッセージが届いた。うれしい。こうみえても、ちゃんと老若男女、バランスよく友がいるんです。バランスの内訳はまぁ、あくまで私の感覚なのですけどね。
ほんとうのことは、たいていひとが簡単に観ることのできる表面のでこぼこにはないのです。みえないところに、もっともっとたいせつなことがあるから、表面になどこだわらずに案外平気で乗り切ることが出来る。気がします。なるたけひとに平等に接する。無論、公の場でという意味ですが。これに徹している人は、得てしてこれこれこういうわけで、わたしはこういう言動をしていますなどと、野暮な説明はいちいちしない。だから、ひとは、とかく、目に付いた部分だけをとりたててわいわいいったりもするようだが、ほんとうの理由はちゃんと別にある。そんなことな気がする。ずっとずっと昔のことだけど、一部のひとがわたしの態度がよろしくないと、自分たちには話しかけてくれないと、問題にしたことがあって…。さっぱり意味がわからなかった。わたしは、アイドルでも広報ガイドでもありません、仕事と関係のないおしゃべりの部分まで全員平等になんて無理に決まっているでしょ。だいいち、たとえば自分が興味のない人が自分に話しかけてくれないといって、騒ぐのですか?そこんところが、どうにも矛盾しているように思えて、仕方のなかったことがある。好き嫌いのないひとなどいません。いたら、むしろそっちのほうがおかしい。陰日なたを平気で使い分けてそれが当然という顔をしているひとに、そうでないひとと同じように信頼を寄せよというほうが、滅茶苦茶です。ほんきで、だれかを、家族にしてもそうですが、想う、あるいは守りたいとおもうこころにたどりついたら、そんな生半可な気持ちでは生きられないのです。そういうことを、いちいちすべてのひとに説明してなど歩けません。(わたしは、どうも、いま熱くなっております。)と、まぁ、そんなことを言ってもしかたがないので、つまりは、こういう役回りを時には演じきらないといけない、ということなのでしょうね。
本を選ぶというのも、いわゆるひとつの、自分のこころへの処方箋なのかもしれません。なにしろ、ほら、そのときどきで、自然に手が伸びる本が違うでしょ? 最近の本の傾向からも、正直、文庫は手にしても新書はどうも…、というわたしなのだが、先日訪れた書店では、とにかくいま読みたいと手にしたのが、たまたまだけど、それだった。『白洲次郎的』なんとか、だった気がする。たぶん、そこに書かれている言葉たちへの救いを、こころが求めていたのだろう。そのひとつひとつにホッと癒されている。こんなひともいたと。わかるだけでも、救われる。そんなときがある。無論、自分をなぞらえているわけなど毛頭ない。それは僭越甚だしい。そうではなく、素敵という想いで、それ以外の別のことを考える感情の入る隙間を埋めてしまおうという感じかもしれない。ともあれ、本はそんな意味でも、ありがたい存在である。