ふ~。ほとんど自室の日記みたいになってしまっています。自由というのは孤独なのだと、中学時代のテストの文章にあった気がするけど。やっぱり、誰しもなにかの励みがないとがんばることは、できないのだろうな。そりゃ、わたしがもしわたし以外のだれかだったら、きっと同じことをわたしに言うでしょう。しばらくは、静かに勉強と農家に専念しなさい、と。男の子はきっと、思春期のころに父親という存在との、見えない葛藤があるのだろうな。女の子には、それがない分、ずっとあとになって、母との見えない格闘にあう、こともあるのだろうか。なあんて。あんまり切実過ぎてちょっと笑えない。だから、母親とふたりきりで暮らすひとは、ほんとにえらいなとおもう。たぶん、わたしの場合は我慢が足りないだけだけど、とてもずっと一緒は難しい。少しだけでも距離がないと。子供を育てたことはないが、とても待ってくれない。もう、自分のことがすべてなので、ともするとひたすら振り回される。もっとも、それが普通にしてしまったのは、ほかでもないわたしの責任なの
で、だれにも文句は言えない。みんな、いろんななやみを抱えて、生きているのだから。はてさて、なんでもできるなんて、えらそなこと書いたけど、はて、落ち着いてみたら、何をしたらいいのやら。自由に恵まれるというのは、すごく可能性にあふれているけど、同時に、冷静に分析すれば、明日からの食べる心配が切実となって切迫してくるという意味でもあるわけでして。は~、たいへんです。泣きそうな気分にも包まれます。
とはいえ、母は母の良心で、きっとこたえのない悩みにいまにもかすめとられそうなおもいでいるのかも知れない。わからないけど。かとおもえば、息子の嫁より長く生きてしまったことを、つらいと溢す老婆もある。我が家だけでなく、親類にもこのところ、機をおなじくして試練が続いている。深く考えても仕方がないが、わたしの苦悩がまるで飛び火してるみたいとおもうのは、まるで勘違いの僭越やも知れないのだが。それにしても、いちどは他家にいった末息の父が家に戻ることになり、何の因果か3人の息子と3人の娘はことごとくひとり娘を遺しており、それらにみな苦難が、同じ時期にくるなんて。やっぱり旧家は難しすぎるのかも知れない。もっとも、だれしもいつ病気にならないとは限らないのだから、みな一緒ではあるのですけど。わたしとて、いずれわたしが、だれか継いでくれる若いひとに責任もって譲ろう、あるいはそれがもしむりなら、そして老いてもしまだ元気なら、里子というかまぁ法的子息をもたねばならぬのかなぁ、くらいの覚悟というか心づも
りは、ずっと前からちゃんとあるけれど、そんなこといまからおおきなこえで言えるわけもなく。でも、やっぱりこの古い仏壇をどうすればいいのかを考えるだけで、一生が過ぎちゃう気もして、気がめいる。ほんとにばちあたりだとはおもうけど。どちらを考えてもやっぱり泣きそうですねぇ。
それでも、ほんのつかの間心底のんびりできて嬉しかった。たぶん、ほんとはとてもそんな悠長ではなかったのだけれど。はてさて。時間は待ってくれないし。でも、じたばたしても仕方がないし。きっとなんとかなると、寅さんみたいな心意気が大事だし。ほんとにいまは、精一杯知恵を絞って自分を生かしていかないといけないし。そんな風に自分を鼓舞したり、なだめたり、少しは甘やかしたり。そんなこんなを書きながらほかでもない自分をなんとかはっぱかけんと、もがいているのですねぇ。うーん。困りました。しごとをさがすって、やっぱりほんとにいちばんえらい(しんどい)ことな気がします。
で、だれにも文句は言えない。みんな、いろんななやみを抱えて、生きているのだから。はてさて、なんでもできるなんて、えらそなこと書いたけど、はて、落ち着いてみたら、何をしたらいいのやら。自由に恵まれるというのは、すごく可能性にあふれているけど、同時に、冷静に分析すれば、明日からの食べる心配が切実となって切迫してくるという意味でもあるわけでして。は~、たいへんです。泣きそうな気分にも包まれます。
とはいえ、母は母の良心で、きっとこたえのない悩みにいまにもかすめとられそうなおもいでいるのかも知れない。わからないけど。かとおもえば、息子の嫁より長く生きてしまったことを、つらいと溢す老婆もある。我が家だけでなく、親類にもこのところ、機をおなじくして試練が続いている。深く考えても仕方がないが、わたしの苦悩がまるで飛び火してるみたいとおもうのは、まるで勘違いの僭越やも知れないのだが。それにしても、いちどは他家にいった末息の父が家に戻ることになり、何の因果か3人の息子と3人の娘はことごとくひとり娘を遺しており、それらにみな苦難が、同じ時期にくるなんて。やっぱり旧家は難しすぎるのかも知れない。もっとも、だれしもいつ病気にならないとは限らないのだから、みな一緒ではあるのですけど。わたしとて、いずれわたしが、だれか継いでくれる若いひとに責任もって譲ろう、あるいはそれがもしむりなら、そして老いてもしまだ元気なら、里子というかまぁ法的子息をもたねばならぬのかなぁ、くらいの覚悟というか心づも
りは、ずっと前からちゃんとあるけれど、そんなこといまからおおきなこえで言えるわけもなく。でも、やっぱりこの古い仏壇をどうすればいいのかを考えるだけで、一生が過ぎちゃう気もして、気がめいる。ほんとにばちあたりだとはおもうけど。どちらを考えてもやっぱり泣きそうですねぇ。
それでも、ほんのつかの間心底のんびりできて嬉しかった。たぶん、ほんとはとてもそんな悠長ではなかったのだけれど。はてさて。時間は待ってくれないし。でも、じたばたしても仕方がないし。きっとなんとかなると、寅さんみたいな心意気が大事だし。ほんとにいまは、精一杯知恵を絞って自分を生かしていかないといけないし。そんな風に自分を鼓舞したり、なだめたり、少しは甘やかしたり。そんなこんなを書きながらほかでもない自分をなんとかはっぱかけんと、もがいているのですねぇ。うーん。困りました。しごとをさがすって、やっぱりほんとにいちばんえらい(しんどい)ことな気がします。