もし、気に障ったらごめんなさい。と、言い出す前に前置きするのはきっと是こそ気に障るようにも思えて、やっぱりとにかくごめんなさいなのだが、ともあれ、お許し下さい。黒川伊保子さんによると、男の人は真実と言う事実を積み重ね、毎日同じルーティンを繰返す中での安心を是とし、かたや女は、子育てから仕事の段取り、はたまた旅行の計画、あるいは好きな映画俳優までをおなじお皿の中にならべて、考えている。考えるというより、むしろ、いつも物語を紡いでいる。そう、おままごとのように常に舞台設定を仮想して、こころを遊ばせている。といったらいいだろうか。だから、ときどき、完全に理解不能のように感じられてしまうのかもしれない。ところが、本人は、いたって冷静、まったく普段どおりで、ただ、少々このごろ想像力が溢れすぎて困るなとか、そんな感じ。たとえば、空気もからだもその構成する分子や原子レベルまで微小化すると、その境目などまったくわからないように、おんなは、(たしかに勝手だが)、ともすると、真実と嘘の境目などあってないようなもの、ぐらいにおもっている!ばあいもあるかもしれない^^;。つまりは、自分の直感だけを信じているところがあるのかな。自分が信じ切れたらどんなものでも真実だし、かたやだれがなんといおうと、違うと思えば違うのだ。つまりは、傲慢。なのだが。たぶん、自ら産むことのできるせいだからかなぁ。絶対的な確信がどこかにあるのだろうか。そういえば、だれかが溢していた。女はすぐに白と黒に分けたがる。常にそのどちらかしかなくて、あえてグレイゾーンを残しておくという、曖昧文化を受け入れられないのだ、と。たしかに、そうだろう。あらゆることは、極論すると、好きか嫌いかで、行動も思考(=嗜好?)もほぼ決まるのだから。冷静に考えるととても、政治的問題の解決に適しているとは、どうしても思えないのは、そこのところ。かな。


だけど、だから、まったく違う生き物だからこそ、相手のいろいろな部分が、可笑しかったり、感心できたり、刺激を受けたり、賞賛したくなったり、はたまた、どうにも理解できずに見なかったことにするしかないとおもったり、まぁ、つまりは、どこかで癒されている。ホッとしている。とおもうのは、わたしだけ?でしょうかねぇ。またしても、おばさんの勝手なスイソク、仮説なのだが。その物腰の柔らかさや、ものごとに対する丁寧な姿勢、あるいはそれらをひっくるめたつまりはやさしさは、女はとても男のひとには敵わない気がする。圧倒的に、緻密であり、思慮深くもあり、そしてものごとを深く考え答を導き出そうとする根気も、探究心もはるかに大きい。それに比すればほとんどが大雑把。だから、常に気を配っていないと、本来のがさつが顔を出す。ような気がする。ためしに、隣のお宅の雨戸を閉める音でそれが、女の人によるものが、男のひとによるものか、聞いて見ましょう。まず、違いますから。特に一日中家にいて、趣味もないご婦人方は、そこに一日の鬱憤がこめられているようにも聞えたりして。で、ふとおもったのは、子どものうちは元来母親と居る時間が圧倒的に多い。つまり、異性のこころに触れる時間が断然多い男の子ほうが、異性への心配りが得意になる。と、いう仮説はいささか短絡的ですかねぇ。わたしのように、定年後の隠居暮らしに合わせるかのように生まれた身で、毎日父が母と同じくらいにそばにいてくれた、そういうのはまず滅多にないのかもしれませぬ。フェルマーの定理だったかとおもうが、確か仮想上の無理数iと、永遠に小数点以下が続くπを掛け合わせるとゼロになる(でしたっけ?)。つまりは、数字の神秘、世界のミラクルなのだが。たぶん、これまたきわめて大雑把だが、全く異なるふたつが出会うと、奇跡が起こって見事にひとつの数になる。融和する。和合する。う~ん、どういう表現がしっくりくるのか、わからぬが、ともあれ、相性とは惹かれあうとはきっとそんなことではないだろうか。つまり理屈だけでもどうにも説明がつかぬ、というか。。。。(つまり、かように何事も端的に、限られた精鋭の言葉数では説明できない、のがおばさん。なのでしょうか。。。)


雰囲気が好き。あるいは嫌い。これはあらゆることを凌駕する。というといいすぎかな。たぶん、これに好感が持てるかいなか。友達になりたいとおもえるかいなか。こころを開きたいと思えるかいなか。ひとが、ひとと交流したいとおもうのは多分そういう感覚。つまり、共感できる、あるいたそうしたい部分があるかいなか。河合隼雄氏の『大人の友情』は名著におもう。おしゃべりする。時間を共有する。たぶん、そういうことだろう。幼馴染みというのは、ある意味、本当に本能に近い部分で共感しあった仲だから、時をどれだけ経たあとでも、会うととても嬉しく懐かしい。おとなになって、そういう意味で、真の友情を作る、築くというのは、それだけ骨が折れるし、たいへんなのかもしれない。何しろ、余計な情報がいろいろ邪魔をするし、はたまた、大人だからこその億劫さや、警戒心までつきまとう。20代と比べるだけでも、はるかに難しいと感じるのだから、ほんに年々大変になるのだろうか。つまりは、ひとは冒険よりも、安住や安定を求める按配が年とともに強まる、ということでしょうか。それに、紳士協定なる暗黙の了解や、公私を分けてプライベートはペア単位で相手を認識する欧米に比べて、そういう意味での成熟度はやっぱり遅れている(と感じる)し。ただ、同性とだけつるみ、仕事の愚痴をこぼすだけの余暇なんてあまりに寂しすぎます。まったく緊張感のない交流など、それは友情などではない。といったらいいすぎですかねぇ。かように、このところこのオバサンは一事が万事で熱くなりすぎる傾向にある。恐らく、たぶん、きっと、田舎の貝の揺り戻し。こころの解放へのよっきゅうがそうさせているのはわかっているのですが。。。できることなら、このままページがなくなるまで書いていたいような、気もしているから、困ったものです。ともあれ。なので、そんな意味でもゴルフは素晴らしい。素敵な方といちにち、季節ごとの光の織り成す自然のつくる風景を眺め、そして会話をし、互いのキャっチボールの趣向に感心し、なにしろ戸外でこれだけの時間を共有するなんて、山登り(むかしはゴウハイというのがあったとか?)でもしないとないわけで。。。だから、自分のボールの行方にしか興味のないのでは、ちょいとどころか相当困る、興ざめ、となるわけで。。。ふ~、してみると改めてやっぱり紳士のスポーツなのですねぇ。