ヤバイです。誤解や語弊を承知で言うと、感想の第一声はそれ。詳しく書くといまだと、100行じゃ済まなさそう。『思考の整理学』で外山さんが教えるとおり、なるべく“ねかせて(熟成させて)”から、詳しい感想は書きたい気がする。ただ、生意気をお許しいただけるなら、そしてもし事情が許されるなら、ともかく是非足を運んでほしい。哲学書を一冊読破するより、はるかにインパクトのある“パッション”を得ることをできるでしょう。正直、もし懐が許すなら、残る講演すべてを観たいくらいだ。いささか大袈裟だがそうおもった。安易に比べてはいけないが、たとえば、大好きな映画でなおかつ、観るたびにあたらしい発見をできる映画、それをことあるたびにみていたい、そういうのと似ている。始まったとたんにもう、シナリオ本が欲しいとおもったほど。ひょっとしたら、このあと、もうこれほどの衝撃をもって観られる作品はないかもしれない。またまた大袈裟だけどそうおもった。たしかに、男性より女性ファンが多いに違いない俳優さんであるから、少々気持ち的にどうかなとはおもうけれど、ともかく、俳優さんがいいとか悪いとかではなく、ほかにこれをこんな風にできるひとは、少なくともいまのこのくににはいないでしょう、というのと、なによりもまず、俳優さん自身が恐らくきっと、生涯の伴侶を得たような感じでこの役を演じているに違いない、と観ていてそう思えるから。そういうのが伝わってくるのも含めて、凄すぎるというのが、まだことばとしてまとまらないいまの感想。とにかく、一見できればいいのにな。平らかなこころでそうおもいます。
「フランダースの犬」が恐らくこころの一冊のひとつ。低学年向けの平易な本だった。近所のゴルフ場の社長さんのお子さんに、乞われて貸して差し上げたのだが、できれば、ほかのはいいですが、これだけは返してくださいね、ところが、すぐあとにあの高速道路も倒れた大震災。思い出のつまった一冊は、正直なくなって哀しかった。無論、かけがえのない命をなくしたかたからすれば、たいしたことはない。貸すというのは、半分は差し上げる覚悟がないといけないのだと、そのとき学んだ。でも、それはそれでいいとおもっている。きっと、それでもっと多くのことが学べたし、むしろ実物をなくしたことで、その本の印象や思い出は心の中で、ずっと大きく存在感をもっている。ともあれ。本とは改めて偉大だと感心します。あの、洗練された書店。本の数が限定されているということは、それだけ厳選されているということで。ひとつの棚の前だけでも、書き留めていつか買いたいと感じる本たちが次々目に留まって、嬉しい悲鳴。そこへは、舞台が始まるまでの短い時間に行ってみた。そういうときって、また時間が限られているだけに、ものすごく充実するんですね。時間とは改めて凄い。とも感じます。家康ではないけれど、「待つ」ことができれば、大抵の(一過性の)小さな衝突や軋轢は回避できるし、それを知らない相手にも、ときには敵であったとしても、平和という心地よさのこつをこれまた静かな空気で伝えることができる。たとえば、狭い歩道でまずは、自分から道を譲る、とかね。相手を先に通すことで、相手が通るのをほんの刹那待ってあげられるだけで、かなり有難い平和と余裕をこころにもつことができます。ひとは、日々のこころのありようからできているから、やっぱり小さなことの積み重ねは多きい。これは言われてやってもその場限りになるだろし、それぞれがほんとうに気づいてできて初めて胸にしみこむ。そんな気がする。とかなんとかね、それはそれとして。いまこのときだけは、子どもみたいに「ねぇ、はやくはやく!」そう言ってみたい気もするんだな。なにごとも、終わりよければではないですが、あともう少しの辛抱が肝心なのですよねぇ。わかってるんだけどなぁ。う~ん。。。ハチが凄いと改めておもいます。