投手と捕手の間の距離は、確か17.86メートルだったろうか。うろ覚えなので、少し違うかもしれない。思わず、そばにある街路樹の松に抱きつきそうになりながら、言葉のあやの難しさについて、ずっと考えていた。またしても、ことばが、いつもの調子乗り、軽率さが過ぎたに違いない。ものすごく叱られた気分で、ずっとことばを探していた。でも、戻ってもう一度読み返すと、それほど怒っているのとは違うようにも見えてきた。行間を読むのは、ときにとんでもない早とちりをうむことがある。もっとも、それは読み手の慌てんぼうがいけないのだろうけれど。キャッチボールは、離れすぎるとボールの勢いも、互いの息遣いも、あるいは込められた気持ちも、グラブにおさまるときの手ごたえも、さびしいものになってしまうが、かといって、熱がこもる余り、思わず一歩二歩と近づきすぎて、そこから力いっぱい投げてしまえば、相手を傷つける。あらぬ語弊や、余計なひとことがそうであるように。言葉は刃。たしか映画のラストの詞もこのフレーズで始まっていたっけ。占いの本にそういえばあった。あとは自制心をきちんともてるかどうかがかぎである、と。的を得すぎていて耳が痛い。
松下幸之助さんが遺されたことばにある。「悪い時がすぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」(『たいせつなこと』)と。ときに、こんなことをしていても、ただ時間の無駄ではないか、徒に無益に流しているだけではないか、そうおもい悩むこともあるけれど。きっと、でも、どれもみんなあとになれば、それらがみんなあってはじめてこれこれがある、そうおもえるのではないだろうか。がむしゃらに、なにがなんでも…と、しゃかりきになっているときには、どうにもビクとも動きそうのなかった扉が、ふっと何かの拍子に手綱を緩め、力を抜いた途端、思いがけない流れに乗ってあっさり動く、そういうこともあるのだろう。試されているといえば、ひとはみんなどんなときも、神さまに試されているのかもしれないし。深くは考えないでやっていることも、きっとそれぞれの潜在意識はもっと繊細にいろいろな選択や判断を知らず知らずにやっているのだろう。だから、自然の声が聞こえるまで待つしかないし、自然にこころが決まるのを待つしかない、きっとそんなこともあるだろう。そんなこんなをおもいながら、ふとおもうのは、30何年かかってやっと、人生とは、生きるとはどういうことなのかが漠然とだが、わかるような気がしてきた。そして、それをどう生きればいいのかがわかるには、きっとまた同じくらいの年月が要るのだろうなぁ。気の遠くなる話だが、そんな気がして、でもかえってその可笑しさにふと、こころが軽くなれたような、そんな気もした。
奇しくも東西の噺家の重鎮の経歴を耳にしながら、ふとおもった。国を動かすのは政治だけれど、人生の機微を丁寧にひろいあげ、そしてひとをときに叱り、ときに慰め、ときに笑い飛ばして、そうやって可笑しさという芸をもって、ひとのこころをうごかす。そんな落語の奥深さに改めて、感心した。これは是非いつかアンコールしてもらいたいドラマに『晴れのちカミナリ』というのがある。NHKで、たしか昭和61、2年ごろに放映されたもので。杉浦直樹さん演じる実在の方をモデルにした落語の師匠と、渡辺謙さん演じる弟子との人間ドラマ。あの勝新さんのお兄さんや、えっと名前が出てきませぬ。とにかく錚々たる名優さんたちが脇を固めていて、泣かせるほんとにいいドラマだった。それを思い出しながら、粋の素晴らしさ、やせ我慢の恰好よさにただただ、ため息をつきたくなった。風にお任せしたいじょう、途中であれこれ注文するのはいささか勝手が過ぎると恥じつつも、でも、ときどき、ほんのわずかでも会えばきっとコンマ秒で氷解できる空気を感じられるのになぁ、とふと思わないではない。鷲田さんの『待つということ』は、とても緻密で論理的なことばが並んでいて、その難解さがなぜかこころの落ち着きを取り戻す時間を作ってくれたりもする。頑張っている人に頑張れと声をかけるのはかえって酷になる。じゃあ、頑張るなといえばいいかといえば、それも違うだろう。う~ん、むずかしい。おんなはやっぱり短絡(楽観)的だと言われるかもしれないが、時を信じて待とう。