「今日と未来の間に流れる河を夢というなら あなたと同じ夢を見ることが出来たならそれでいい 僕は神様でないから 奇跡を創ることは出来ない けれどあなたを想う奇跡なら 神様に負けない ああ大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい あなたは気付かなくても いつでも隣を歩いていたい ああ大きな夢になりたい あなたを包んであげたい あなたの笑顔を守る為に多分僕は生まれてきた」 という詞の歌がある。ひょっとしたらこのひとは、実は2000年くらいずっと生きていて、たくさんの生き死にをみてきたんじゃないか、そう思えなくもない。このひとの詞は、50歳を過ぎてまた熟の域になったとおもうが、それ以上に20代のころの詞のほうがずっと“老成”している。多少脆さや荒々しさを孕んでいるとはいえ、透明感と悟りが共存しているようなそんな感じがする。ものごとを恐らくひとの何倍も深く、苦しく、そして精密にとらえ考えてなければとてもこんな風に、ことばを選び、そして切り取ることはできますまい。そう感心するから、聴く側の年齢とともにそれまた違った風に進化したり、新鮮な驚きとなって耳に届くのかもしれない。ともあれ、ことばの魔術師だ。そしてこのひとの語る愛は、おそらく空よりも、宇宙よりも、天よりもずっと偉大で、もっとおおきな懐ですべてのものを包み込める、そんな風にみえる。
たまたまこのごろ、幾人かの友人から、苦言だろうか忠告だろうか、まぁお説教ではないが、あなたはもっとひとと積極的に話をしたほうがいい、好き嫌いを頭から決め付けてしまわないで、とりあえず一度食べてみればいい。それで不味かったら吐き出せばいい。食わず嫌いはいけない。と、言われた。というか、10歳以上も年下の子にそう言わしめるわたしは、とても恵まれているのだろうか?ともあれ、若さとはときに残酷さと引き換えに、真実を懼れずに語れるものらしい。(とかなんとかいいながら、繊細なわたしは、それなりに受け止めてもっと努力が足りないのかなぁ~と、ひとまずはこころで噛み砕くのに少し時間がかかってしまうのだけれど。ともあれ。)ときどき、そうやっていろいろなことを言ってもらえる機会に恵まれるのだが、わたしは、ひとに向ってあなたはこうだからこうしたほうがいいとか、これはやめたほうがいいとか、そういうことを少なくとも自覚的には言わないし、言えない性質で、ただ、うまく一般論として、あるいは人間というものの本質論として言うけれど、どちらかというと、相手にはなるべく気持ちよくいてほしい、居心地よくいてほしい、話したいことを楽しそうに話す姿を見ていたい、そう望んでしまう性質なので。いささか、率直なご意見には少々たじろぐ。というか、そういうことを口にする人の内面はやはり、どこかで飢えているのだろうか、と批判的ではなくあくまで好奇心的に覗こうとしてしまう。これも、ものを話すより、書いて思考することを嗜好するにんげんの悪い癖なのだろうか。やっぱり、ひとはありのまま自然体(無論、内面はいろんな苦悩を抱えていて)。そして生きるとは、さまざまな意味での居場所を見つけること、そう勝手におもってしまうのだけれど。う~ん、難しいですねぇ。いろいろなひとがいるからね。
愛に話を戻しましょう。その、上手くいえないけれど、生きるというのはそれに気づいた途端に見える世界がまったくがらりとかわってしまい、それまでは目に見えるもの形あるものをいかにして手に入れたり、ひとに誇ったりするかについて必死であくせくするのであるが、それに気づいた途端、愛するものを想うときのその幸福感、充実感、そんなやわらかくておおきくいものの偉大さに触れられる気持ちよさ、その気持ちがある限り、充分こころが豊かでいられるという充足感。それだけで、生きることの奥行きがどれほど拡がることか。そうしみじみとおもう時間そのものが財産のような、至福のような、そんな気がするのだ。あとの残りは、智恵に触れ、智恵を考え、書き残す時間に充てられたらそれでいい。そんな風におもうのは、おんなののほほ~ん、なのでしょうかねぇ。ほかにはなにもできないけど、ただ、わたしはあなたのことを全身であいしたい、そうおもうと、ひとりでに込み上げてくる涙。たとえば、そんな時間のあることを、わたしはたいせつにしたい。たとえひとに、ただのセンチメンタルと笑われようとも。ひとりぐらいそんな愚直なお馬鹿さんがいたっていいでしょ。ってね。