小学3年のときだったか、図工の先生が2時間のうちの1時間を割いて、ひととしてのたいせつなこと(だったと思うが)の、話をしてくれたことがあると、ここで以前にも書いた。わたしが、思いやりと答えて、別の誰かが気持ちと答えて、気持ちに二重丸、思いやりに一重丸が黒板で付いたシーンを鮮明に覚えている。思うに、そういうことを教えてくれたのだと思っている。ここからは、わたしの解釈だけど。ともあれ。いつ、どんな時でも、もっとも難しく、そして大切なことの根幹は気持ちにあるのだろう。気持ちとは、気の持ちようであり、それによってひとはいくらでも変わる。無論、いいほうにも、そうでないほうにも。そして、ひとりのなかでも、いいときもあれば、空回りばかりのときもある。実も蓋もない言い方をしてしまえば、ひとから気持ち悪いと思われるひとは、これ下品であり、上品なひとがだれかにそう思われることは少ないだろう。ただ、ひとそれぞれ、いろんなトラウマや不信や、劣等感をもっているから、ことはそう簡単にはいかない。そこが難しい。そこ
に、お金という物欲がからむともっと難しいことになる。
こればかりは、一晩や二晩で変えられるわけがない。舌切り雀ではないが、大きな箱を選ぶひとは、何回選びなおしても同じになるだろう。スコアより、スタイル。そのこだわりを貫き通すことは、並大抵の信念では難しいのかもしれない。だからこそ、価値があると思うのだが。敢えて、普通ひとが選ばぬ困難を選ぶというのは、確かに勇気が要る。それに、(陰での努力も)何も知らずに結果だけをやっかむひとたちからの嫉妬心を跳ね飛ばすだけの、度量も忍耐も要る。わたしの場合、気が読めすぎるのがいけない、そういういつかの友人の忠告がいつも難関となる。ひとの気が余分に読めてしまうばっかりに、先回りしたり、わかっててあえて泰然としていたりするのが、どうにも気に入らぬひとの反感を買う。できないふりをしなさい。勤めを始めるときに、さる方が忠告くださった。年を経るごとに、その意味がよくわかる。そもそも、誰にでも好かれるなんて嘘っぱちじゃん、そんな欺瞞を演じるぐらいなら堂々と、何事にも甘んじよう。なんて、傲慢なんだろうな。なにごとも、み
んなと一緒、それが何より大事、なんだろうな。いつも、あともう少しというところで、あらぬ困難を引き受けてしまう。でも、短気も損気。なるべく、辛抱したい、のだけどな。
お金にだけは綺麗にありたい。ほんの少しの欲や、目先の値切りのために、結局後味の悪さが残り、余計な災難を引き寄せる。長い目で見れば、結局、こころの平安という、最大のしあわせを失うことのほうが、圧倒的に多い。だから、いざというときに値切らずに使えるように、普段はなるべく丁寧に使う。余計な支出を防ぐ。そんでもって、ここが肝心、そんなときには、こころよく使う。気持ちよくが何より。お金がない、ないと、言っているひとを冷静に観察していると、随分と無駄な使い方をしている。それでいて、肝心なときに値切ったり、けちったりを繰返すから、結局、徳と言う最大の得からも縁遠くなる。わかっちゃいるけど、そう腹を据えられるものでもない、と言われそうだが、でもこれは実践できたひとにだけ、ひそかに訪れる幸運の連鎖が、確かにある。そう感じている。結局、ひとはさいごは気持ちでしか動かない。それがわたしの自論なのだが、北風でなく、どこまでも太陽で貫くのは、確かに試練も忍耐もたくさん要る。恐らく、何千年たっても、ひとの根源に去
来する感情、心情、想いは、同じではないだろうか。こころからひとを愛することができるというのは、ほんとうに恵まれたことだと思う。極端な言い方をすれば、それだけで充分生きられるし、生まれてきてほんとうによかったと、思える。お金で買えるものなんて、それがどれほど巨大でも、所詮しれている。その意味するところを、わかることができたひとにだけ、実感できる充足感が確かにある。源氏物語をはじめ、古典の多くは、恐らくそういうことを教えてくれている。そんな気がする。
に、お金という物欲がからむともっと難しいことになる。
こればかりは、一晩や二晩で変えられるわけがない。舌切り雀ではないが、大きな箱を選ぶひとは、何回選びなおしても同じになるだろう。スコアより、スタイル。そのこだわりを貫き通すことは、並大抵の信念では難しいのかもしれない。だからこそ、価値があると思うのだが。敢えて、普通ひとが選ばぬ困難を選ぶというのは、確かに勇気が要る。それに、(陰での努力も)何も知らずに結果だけをやっかむひとたちからの嫉妬心を跳ね飛ばすだけの、度量も忍耐も要る。わたしの場合、気が読めすぎるのがいけない、そういういつかの友人の忠告がいつも難関となる。ひとの気が余分に読めてしまうばっかりに、先回りしたり、わかっててあえて泰然としていたりするのが、どうにも気に入らぬひとの反感を買う。できないふりをしなさい。勤めを始めるときに、さる方が忠告くださった。年を経るごとに、その意味がよくわかる。そもそも、誰にでも好かれるなんて嘘っぱちじゃん、そんな欺瞞を演じるぐらいなら堂々と、何事にも甘んじよう。なんて、傲慢なんだろうな。なにごとも、み
んなと一緒、それが何より大事、なんだろうな。いつも、あともう少しというところで、あらぬ困難を引き受けてしまう。でも、短気も損気。なるべく、辛抱したい、のだけどな。
お金にだけは綺麗にありたい。ほんの少しの欲や、目先の値切りのために、結局後味の悪さが残り、余計な災難を引き寄せる。長い目で見れば、結局、こころの平安という、最大のしあわせを失うことのほうが、圧倒的に多い。だから、いざというときに値切らずに使えるように、普段はなるべく丁寧に使う。余計な支出を防ぐ。そんでもって、ここが肝心、そんなときには、こころよく使う。気持ちよくが何より。お金がない、ないと、言っているひとを冷静に観察していると、随分と無駄な使い方をしている。それでいて、肝心なときに値切ったり、けちったりを繰返すから、結局、徳と言う最大の得からも縁遠くなる。わかっちゃいるけど、そう腹を据えられるものでもない、と言われそうだが、でもこれは実践できたひとにだけ、ひそかに訪れる幸運の連鎖が、確かにある。そう感じている。結局、ひとはさいごは気持ちでしか動かない。それがわたしの自論なのだが、北風でなく、どこまでも太陽で貫くのは、確かに試練も忍耐もたくさん要る。恐らく、何千年たっても、ひとの根源に去
来する感情、心情、想いは、同じではないだろうか。こころからひとを愛することができるというのは、ほんとうに恵まれたことだと思う。極端な言い方をすれば、それだけで充分生きられるし、生まれてきてほんとうによかったと、思える。お金で買えるものなんて、それがどれほど巨大でも、所詮しれている。その意味するところを、わかることができたひとにだけ、実感できる充足感が確かにある。源氏物語をはじめ、古典の多くは、恐らくそういうことを教えてくれている。そんな気がする。