そういえば、このまえの友人とのおしゃべりのなかで、こんな話もでたのだったっけ。本で読んだり、実際に感じたりしてることからも、思うに、おんなは生まれたときからずっと変わらぬ状態で、自分がおんなであるということも含めて自分自身の存在そのものには、疑いようのない自信があるというか、たぶん、それは産む性であるからかもしれないけれど…。とわたし。友人は少し驚きながらも、確かにそうと納得。だけど、おとこの子は、変声期しかりで、精神的にもいくつもの関門を通らねばならない宿命で、いまは元服式も、出征もないけれど、それでも桃太郎同様、いちどは冒険を経ないと大人にはなれない…。きっと、おんなにはとてもわからない不安というか、いくつもの試練があるのではないのかしら。とわたし。そうなのかねぇと、その友人。そして、どうして男って、自分が間違っていたと気づいても、謝らないのかなぁと友人。さらに続けて。もし、相手が女性でも、間違ったときはきちんと訂正してごめんと言えるひとがいたら、わたし今すぐにでもお願いして結婚し
てもらうわ、という。もっともその友人には素敵なご主人がいるのだけれど。内心、くすくす思いながら、聞いていた。そりゃあ、ねぇ~。
で、その友人曰く、かつて男友達に尋ねたことがあるのだそうだ。今度生まれ変わったら、男になりたいか女になりたいか、と。するとほぼ全員が男と答えたという。へぇ~と、聞きながら。わたしは、内心、そりゃあ、あなたみたいな美人の女性からそんな質問されて、いやぁ~おんながいいな、なんて思ってたとしても言えんでしょ、と、思ったのだが、流石にわたしもそれは言えなかった。で、彼女のいいたいことは、少々しんどくても、男のほうが、遊びの種類もたくさんあってきっと愉しいに違いないわ、というのだった。彼女にもし、子どもがあったらまた違った意見だったかもしれない。子どもの頃、女の子だから野球チームには入れません、そう言われたときだけは、自分が男の子だったらよかったなんて、思ったことは確かにあったけど。一時は、プロ選手を目指していながらなんですが、正直なところ、競うことはもうたくさん、そうしみじみ思っている。で、語弊があるといけないが、同世代の女性とゴルフをするのはなるべく避けている。こちらはそれなりに時間と労力を
かけてきたのだから、飛距離もその他も優れていて仕方ないのだが、それでも勝ってしまうと後々気苦労がつきまとう。おんなの難しいところだ。そんなわたしに、また別の友人は、わたしは空気が読めすぎるところがあるから、と慰め忠告してくれるのだけれど…。
子育ての番組を見ていると、勉強にもなるし、また可笑しくて仕方のないところもある。いい学校に入れたいとか、~~にしたいとか。そもそも子どもは別の人格であり、親の所有物ではないはずなのに。いったい、肩書き武装でどうしてしあわせが作れると思ってしまうのでしょう。孟母三遷ではないけれど、子どもは親の背中をみて育つのに。詰め込み教育の勉強なんて、できるひとほど頭はよくない(と言ったら言い過ぎかな)し、柔軟な知恵はまた別だ。そんなことより、ちゃんとひとの気持ちが理解できて、きちんとしたことばが話せることのほうが、いくらも大切だと思うのだけれどなぁ。こういうのは勉強にあまり苦労したことのないもののたわごとですかねぇ。そして、話は戻るけど、思えば子どもの頃、学校では8、9割、家に帰っても半分以上は紅一点で遊んでた。ひとつには、男の子のする遊びのほうが楽しかった。あたまと運動神経と、その両方を使えるのがうれしかった。もちろん、ついていけない遊びもあった。もうひとつには、女の子どうしのような、余計な気を遣
わずに済んで楽だった。勝負は勝負、好き嫌いとはまた別と、割り切れるのが快かった。つまりはいいとこどりで、とても恵まれていたのだろう。で、自分でも何をいわんとしているのかいささか心もとないのだが、男の子を育てる難しさについて、ほぅ~と、少し考え感心させられたような…、そんな気がしたのでした。
てもらうわ、という。もっともその友人には素敵なご主人がいるのだけれど。内心、くすくす思いながら、聞いていた。そりゃあ、ねぇ~。
で、その友人曰く、かつて男友達に尋ねたことがあるのだそうだ。今度生まれ変わったら、男になりたいか女になりたいか、と。するとほぼ全員が男と答えたという。へぇ~と、聞きながら。わたしは、内心、そりゃあ、あなたみたいな美人の女性からそんな質問されて、いやぁ~おんながいいな、なんて思ってたとしても言えんでしょ、と、思ったのだが、流石にわたしもそれは言えなかった。で、彼女のいいたいことは、少々しんどくても、男のほうが、遊びの種類もたくさんあってきっと愉しいに違いないわ、というのだった。彼女にもし、子どもがあったらまた違った意見だったかもしれない。子どもの頃、女の子だから野球チームには入れません、そう言われたときだけは、自分が男の子だったらよかったなんて、思ったことは確かにあったけど。一時は、プロ選手を目指していながらなんですが、正直なところ、競うことはもうたくさん、そうしみじみ思っている。で、語弊があるといけないが、同世代の女性とゴルフをするのはなるべく避けている。こちらはそれなりに時間と労力を
かけてきたのだから、飛距離もその他も優れていて仕方ないのだが、それでも勝ってしまうと後々気苦労がつきまとう。おんなの難しいところだ。そんなわたしに、また別の友人は、わたしは空気が読めすぎるところがあるから、と慰め忠告してくれるのだけれど…。
子育ての番組を見ていると、勉強にもなるし、また可笑しくて仕方のないところもある。いい学校に入れたいとか、~~にしたいとか。そもそも子どもは別の人格であり、親の所有物ではないはずなのに。いったい、肩書き武装でどうしてしあわせが作れると思ってしまうのでしょう。孟母三遷ではないけれど、子どもは親の背中をみて育つのに。詰め込み教育の勉強なんて、できるひとほど頭はよくない(と言ったら言い過ぎかな)し、柔軟な知恵はまた別だ。そんなことより、ちゃんとひとの気持ちが理解できて、きちんとしたことばが話せることのほうが、いくらも大切だと思うのだけれどなぁ。こういうのは勉強にあまり苦労したことのないもののたわごとですかねぇ。そして、話は戻るけど、思えば子どもの頃、学校では8、9割、家に帰っても半分以上は紅一点で遊んでた。ひとつには、男の子のする遊びのほうが楽しかった。あたまと運動神経と、その両方を使えるのがうれしかった。もちろん、ついていけない遊びもあった。もうひとつには、女の子どうしのような、余計な気を遣
わずに済んで楽だった。勝負は勝負、好き嫌いとはまた別と、割り切れるのが快かった。つまりはいいとこどりで、とても恵まれていたのだろう。で、自分でも何をいわんとしているのかいささか心もとないのだが、男の子を育てる難しさについて、ほぅ~と、少し考え感心させられたような…、そんな気がしたのでした。