秋の澄んだ空と空気は、もうそれだけでうれしくてそしてせつない気持ちにさせてくれる。せつないのは、日の傾き加減のせいもある。同じ2時、3時でも、足元の影の長さが夏や春のそれとでは見違えるほど違う。あ~あともう少しでこの爽やかな陽だまりが夕闇に迫られてしまうのかとおもうと、それだけでいとおしさが増す。つまりは、大好きなのだが、いまにもなくなりそうなせつなさと背中合わせなところが、なんとも哀しい。
とまぁ、いささか感傷に耽ってしまったが、ともあれ、その爽やかな風が、この出不精のわたしをしてもさえ、重い腰をあげて、さてゴルフにでかけてみようか、そう思わせるところがすごい。年に数度しかラウンドをしないうえに、練習さえ殆どしない。家事の途中の句読点に、たまにパターは転がしますがね。あとはもっぱらイメージなんとか。なのに、心の中では、むしろ毎日していた頃より、ずっと上手い、そう信じているところがあって、なんともしあわせというか、めでたいというか。奇しくも、引退したあとに教わったセオリーが余りにも自分の感覚と合致したせいだろうか。練習しなくとも同じボールが打てる、過信はあれども、その自信が生まれたのが何より大きい。おかげで、スコアなんかに惑わされない、いくつも視点やみどころを見つけるゆとりができてしまった。だから自分で言うのもなんだが、目が肥えてしまっていけない。
ゴルフとなると、自戒もこめて、ついつい厳しいことをいってしまう。バンカーに入れたらもうバーディはおろかパーさえとれないようではゴルファーとはいえない、だとか。バーディを狙った上での3パットと、寄せのあとの3パットでは全く意味が違う。だとか。まぁ、いろいろ、スコア以外のところを重視してしまう。ゴルフはスコアを競うのではない。スタイルを競うのだ。と。でもって、スコアのために挑戦したい選択肢を捨てることがものすごく口惜しい。せっかくの機会を自ら放棄するなんて。いかに難しい条件に挑戦するか。それが醍醐味のように思えてならない。難しいところほど、真剣になれる。そんなだから、結果だけをみれば、本当に教えられるの?となるやもしれぬ。でも、いい。手堅いゴルフをわざわざお金を払ってまでする意味がわからん、ひそかに豪語していたい。それにしても、成績をいちばんに気にする傾向の日本人(の多く)は、これ遊びが下手、ということなのかしらん。
会話はキャッチボールだね。と、つくづく友人のひとりとそんな話になった。いい天気ですね。そうですね。きょうは早いですね。そうですね。これでは、確かにご近所との無難なおつきあいには相応しいとしても、知恵ある動物としての会話とは程遠い。つまりは、異性でも同性でも、話せるひと話せないひとというのは、そういうことなのでしょうね。というところでお互い落ち着いた。そして、また異性と平熱、平常心でフランクな会話ができないひとがかなりの割合でいるらしいということ。泳げるひとが泳げないひとの気持ちがわからぬように、ボールの投げ方のわからぬひとにはどうにも説明のしようがないのでは、と。でも、結局は人間としてのことばをもっているかいないかにすぎないようにも思えるし。相手の気持ちを想像してものを言うことは、むしろ愉しいことでもあるはずなのに。だから、ことばをもたぬ者どおしは、つるんだり群れたりしてひとの噂話のやりとりでしか、言語をつかえないのだろうか。なあんて、話しているだけでも随分と頭を使った会話になるのですけどねぇ。