休みの日は何をしているの?。そう聞かれたことがある気がする。のっぴきならぬ用事でもない限り、自宅でふにゃふにゃしている。かつて、ストレスの溜まる職にあったときは、午後打ちっ放しに行ったり、単車をころがして海まで行ったり。してたっけ。ともあれ。目覚ましの電子音に遮られない眠りを思う存分貪ったあと。やおら起き出して、洗濯機をまわし、イタリアンのコーヒーを入れる。きょうはマフィンがあったので、目玉焼きとハムをはさんだ。まぁ、リッチなほうだ。あとは、机に向って書き物をすることもあれば、滅多にその気にならないのでやる気になったときにまとめてパソコンでの調べ物をしたり。よ~し、本を読むぞー、さて、そのためには綺麗な空間を作らなくちゃ…、と片付け物に本腰を入れ始めたら夕方になってた、とか。地図や時刻表をみるのが好きなので、調べ物はそれらと関連したお店調べや、文献探し、街で目に留まった商品に関することとか。通販はしない。手に取らずに買ったもので満足できたためしがないから。で、きょうは思いがけず晴れたので、少し早いが衣替えをした。毎度毎度のことながら、今まで何を着ていたのだろう…そう心配になるくらいに少ない。
このところ、家に戻ると炊事当番なので、そしてこの一年は落ち着かない移動生活だったので、自宅の炊事はかなりおろそかになっていた。こまめに買い物したり、手間をかけて何かを作ったりしようという気になれなかった。やっと、以前のように自分の暮らしも大事にできつつあって、我ながらホッとしているきょうこのごろ。とはいえ、どうしてこうも食べることの優先順位が低いのだろう。多少空腹ぐらいのほうが、頭が冴えるので気分がいい。少食になると胃袋も小さくなって、益々少ない量で満足してしまう。ある友人がこぼしてした。ほかにすることがないからねぇ~。そういうものだろうか。自分なりに分析すると、恐らく、食べられないことへの危機感が欠如している。目の前にあっても、好まぬものは無理して食べない。多少やせ我慢もあるのだろうか。いや、楽しみはなるべく後にとっておきたい、そういう意志が強いのだ。としておこう。たいてい、満腹まで食べない。休みの日などは、小腹が空いたら少しずつ補充する。さきごろ、ひとりで食べると美味しくないというエッセイを読んだ。無料誌の巻末にあった。そうなのかもしれない。それより、だれと食べるかで味はまったく違う。というのは確かだとおもう。おいしくないと感じるとき、一緒にいるひととは、恐らく波長があっていない。つまり、好きなひととだと、何を食べてもとても美味しい。そんな気がするのはわたしだけだろうか。
ひとりぐらしをすると、いろいろな危機意識が身に付く。エレベーターは降りるとき必ず1階のボタンを押してから降りる、とか、歩道と車道が植え込みなどで仕切られている通りでは、狭い歩道は雨でなくてもひととすれ違わないように、相手に道を譲る、とか。抱擁文化のない東洋ではとりわけ、知人に触れることにはとても神経を使うのに、それがひとたび知らぬ人となると、モノと同じ扱いになる。と、どこかで読んだ。電車内でも、人込みでも、“気”の怪しいものは確かにすぐにわかる。どんなに静かにしていても、滲み出る空気だけは偽れないのだろう。でも、それらに驚くほど無頓着な女性もかなりいる。人前で化粧するなど、トイレをするのと同じに思える。ともかく、敏感に気づいても気づかなくても、たいていの場合は何も起こらない。だとしたら、いっそ鈍感な方が楽にいられるだろうに。と、嘆きたいこともかなりある。空間に配慮のできる紳士の少ないことと、その国の先行きを同じに論じるのは安直に過ぎるかもしれないけれど。でも、目に見えないことほど大切なことであるから、一概に無関係とも言えない気もする。それにしても、タイマー式で点灯できる電灯はありませんかねぇ。日暮れの早い秋はとくに。ひとりぐらしは、帰ってもすぐに電気は点けられないのですよぅ。いつしか、習慣として身に付いちゃってはいますけどね。