なあんて。もうすぐ満ちそうな中秋のお月様をみあげながら、ふとそんなわがままを言ってみたくなった。春よ来い♪~ではないのだから、そんなに簡単にいけばだれも苦労などしないと、ちゃんとわかっているのだけれど…。

別段、落ち込んでいるわけでもなく、塞ぎこんでいるわけでもなく、むしろ、穏やかにたんたんとした日常をこなしながら、ふと、わけもなくこころにひろがる空虚感に、自分でも驚くことがある。これも、ぜいたく病の一種だろうか。なんとなら、さほど、苦労苦心せずともいられる日常に守られている証拠でもあり、ほんとうにシンドイときは、そんなことを感じている余裕など生まれないのだから。ほとほと、ひととはむずかしい。いや、ひとのこころとはむずかしいものである。適度の心配事や不安もあって、それでもなんとか努力の甲斐が見えていて、まあいいかと思えるほんとにわずかな隙間にいられてはじめてしあわせだと実感できるのだから。ほんにむずかしい。

長期化を覚悟した闘病もせずにすみ、それだけでも幸せ千万なのに、もう、それがないとわかると、あれどうしましょう、なんだか、気が抜けたみたいで、何を頑張ればいいのかしら、なんて、贅沢千万の空虚感に襲われてみたり。いやはや。生きてる意味なんて、ちょっとやそっと考えたってわかるわけないのに、それでも、何も考えずにはいられなくて、ひたすら、抜けるような空と雲と、長閑にひろがる海を眺めながら、思案している。いつの日か、こんな綺麗な景色をたいせつなひとと時間も気にせず、ゆっくり眺めることができたらどんなにいいでしょうに。ふと、そうちゃっかり願ったりもしながら…。

ただアクセルを踏むだけで前に進む車に乗りながら気が付いた。アクセルワークも、ブレーキのそれも、恐ろしく粗雑になってしまうことに。几帳面とは遠くかけ離れた性分ではあるけれども、きちんと走るということがこれでは出来ないとつくづく思った。これでは、ただ、目的地に着くためだけの手段になっても仕方がないと。道中がちっとも愉しくないのだ。人馬一体とは、言い過ぎかもしれないが、その空間の一体感もなければ、風をきる爽快感もない。流れを読んでスピードを調節するという工夫もできない。これなら、確かに壊れれば、はい次、と捨てようと思うだろう。外側だけを高価なものでかためても意味がないと、いつか言った気もするが、同時に、ひとは日々包まれている空間に育てられもする。そうも思うのだ。便利は、あまり行過ぎると、気づかぬうちにもっと大切な何かを失うことになるのだろう。何年先になってもいい。いつかきっと直して走りたい。改めておもった。

同じ素材を使って同じに料理をしても、それはたとえ火を使わないサラダでもいいが、ひとによって味は全く違うものになる。不思議だが、そうなのだ。たぶん、飛んでいくボールにもそのひとのいろんなことが映し出されている。つまり、球筋は、ボールの飛び方はそのひとそのものと言ってもいい。残酷なほどに美醜が写る。一事が万事といってしまえば、身も蓋もないが、だからこそ、ちいさな一事から変えていく勇気と努力をなくして、なにも変わらない。そうも思うのだ。最初からすべてを完璧にできるひとなどいない。いっぱい失敗もし、恥もかくのだが、肝心なのはそのあとだろう。無論、ひとに言うのはた易い。自分の場合は、どこらへがどのようにかっこわるいのかということが、なかなかわかりづらいから。ともあれ、なにかをしよう、作ってみよう、変えてみようと、そう思って夢中になれることが何よりたいせつで。そんな時間ならあっという間に過ぎていく。要領よくすることと、手間を惜しむことは似て非なる。全く違う。きちんと暮らすということ。暮らし方の奥深
さに遅ればせではあるけれど、ひしひし感じているきょうこの頃。ちなみに、お米はガスの火で炊くのに勝る美味はない。(いや、薪の火ならもっと美味しいのかなぁ。。。)