縁台の窓を開けると、キンモクセイの香がいっせいに、鼻腔をくすぐる。日暮れ間近の空気感がすきだ。どこかせつなく、そしていとおしい。時のはかなさが、より強く感じられるからかもしれない。

携帯でこれを書いている。どうも苦手だ。もし、こころに窓があるなら、四方のうち三方を閉じたままで、息をしているような。そんな窮屈を感じるから。どうにももどかしく、それでいて落ち着かない。から。

好きというのは、とても単純なこころの動きであるようだが、その実、ものすごくたいへんなことなのかもしれない。わかるひとにしかわかりようがないもの。だと思う。すぐにあえたらどんなにいいだろう、っていつも思うけど、あわなくてなくなったりするものではないところが、またすごいと改めて、こころに驚いたりもするわけで。敢えてことばにするなら、在るということ、その存在そのものがいつもこころに元気をくれたり、新たな刺激をくれたり…。つまりは、恐らく、自分の中にそうとは知らずに眠っていたいろいろな感覚や、感性に気づかせてくれる。ほんとうに不思議だが、そんな存在なのだ。もちろん、そばにいられたらどんなにいいか。そういえば、白洲正子さんがいつか言っていました。なにごとも、その道中がたのしいのだ、と。最初から、完成されてしまっていては、ちっとも面白くないのだ、と。なるほど、人生って、なかなか簡単ではないからこそ、その意味も価値もあるのですかね。きっと、ほんとうのよろこびとか、せつなさとかいったものは、応々にして
、究極の逆説のなかから生まれるものなのですかねぇ。う~ん。でもたまには、カンタンメイカイ!ってのでもいいのになぁ。な~む~。