ははのはなしをきいていると、ぜつぼうしかないようなおもいにつつまれる。かなしいかな、よのなかにはこんなひどいひともいるものなのだ。ついこのあいだ、人生は持久戦だといったばかりで、その覚悟をしたばかりなのに、もうこころがおれそうになってるじぶんがなさけない。

やっぱりこのひとがいるかぎり、わたしはなにもできないのかもしれない。目のまえのしょうがいひとつどうにもままにならない、くのうのかなしさよ。やっぱりひとは、うまれながらのしゅくめいにさからえないようになっているのだろうか。ゆめは、それでもゆめは、あきらめなければ、いつかきっとかなうものだと、しんじていたいが。ひょっとしたら、あともう少しで何かがかわるのだろうか、それとも、もとよりゆめのまたゆめ、だったのだろうか。マラソンのなかでは、あとになってふりかえると、あのときあとほんの少しのしんぼうができていたなら…。そうおもえることも少なくない。これまでも、ときに、くじこけそうになるこころを、どれだけすくわれてきたかわからない。どんなにつらくても、いつのひか、わらってなつかしめるひもくるだろう。ただ、ともあれ。それにしても、ははをみていると、いったいなにをたべて、なにをどうかんがえておおきくなったら、こんなにいじわるになるのだろうか。ただ、そのことがあまりにかなしく、あまりになさけない。

いつか、ほんとうにいつか、たとえなんねんかかっても、ただ、いつか、わらいあえるひがくるのだろうか。むりならむりでもいい。かみさまにしかられるかもしれないが、いまはほんとうのことがしりたい。なんて、いってしまうあたり、かなりこころがめいっている。そんな気がする。