うまくいえないけれど、ひともやはり、自然界のいちぶであり、だから、あ~しろ、こ~しろというのがいいたいわけではなくて、もっとも、気の向くまま、せめて、休みの時間ぐらいは、こころおきなく、くつろいで、憩いを満喫して、リラックスの贅を尽くしたらいいなと思うのだけれど。そもそも、憩いって?なんだろうって。大遊園地につづく、大渋滞を眺めながら、ふと思ったり。。。文化というのは、恐らく、その地方地方の気候・風土と密接につながっていて、きのうきょうにできあがったものではないから、おいそれと、思いつきで論じるのは、控えるべきなのだろうけれど。季節を愛でる、繊細な情緒に触れずして、この国のよさをどこにみたらいいのだろうって。ふと、思ったり。。。源氏物語に代表されるように、つまりは、おんなとは、あんなに欲深くて、なんとも、たいへんな生き物で。でも、2手、3手先の譜面を考えるだけでも、たまらず面倒くさくて、それだけで、考えるのをやめてしまう、どうしようもない、大雑把な生き物で。ただ、目の前の事態に腹を据えられる度胸だけは、妙にあったりして。してみると、風を読み、芝目を読み、己を眺め、その日の気の流れを読み、そして、緻密な計算と、大胆な駆け引きとを絶妙な配分で織り交ぜて、時間と空間をデザインするなんて、そもそも、おんなのこがするものじゃない。ってことになってしまうわけで。まぁ、自然と触れ合える大切な時間を満喫できるだけで。ほんとうは、充分に大きな恩恵なわけなのですが。


思うに。これは勝手な推察ですが。もともと論理的思考のオスの行動には、すべて意味と位置づけがあって。であたるからして。電車の中で、気が付いたら、ミニスカートの少女が目の前にいた、なんていうのは。恐らくありえず。一方、空間把握がとにかく苦手なメスは、特に周囲を鳥瞰的に見ることなんて、逆立ちしたって無理なわけで。気が付いたら、怪しい人物が隣にいたっていうのは、充分あり得る。とはいえ、ひとによって、個体差はおのずとあって、方向音痴なオスがいるように、車庫入れが滅法上手いメスだっている。いちどでも、行ったコースは、そのホールの位置関係から、グリーンの形状まで、すべて覚えている、という女子がかつていたのには、至極驚いた。果たして、彼女の運転技術には、舌を巻くものがあったっけ。無論、パターのセンスも抜群だった。短気の克服と、正確な長距離弾があれば、間違いなくプロで活躍していただろう。ともあれ。つまりは、ひととの距離感に気を配るというのは、これはまさしく、思いやり以外の何ものでもなく、余裕も自信も、やさしさも、魅力も、それらに恵まれているひとは、さりげなく、そういう言動が、自然にできているわけで。知っている相手なら妙に気を遣うくせに、どこのどいつか分からん途端、ひどい態度の人間は、必ず、それが本人の気づかぬうちの、その品が表にでてくるものであるし。ただ、抱擁挨拶も、レディファストも何もないこの国の男子が、西洋のひとに劣るのは仕方あるまい。それとて、結局は、普段の身のこなしは、本人の自覚のあるなしがすべてなのだと思うのですけどねぇ。あまりに、無意識(を装って)に女子の背後にまわろうとする、無礼者の多さに閉口することしきりなもので。思わず、愚痴のひとつもこぼしてみたくなりました。


つまりは、つきつめると、気持ち悪いというのは、ほかでもない、生物が、自分を危険から守るための、もっとも大切な感覚、信号であるわけで。その感覚に、疎くなるというのは、個体が生き残るのに、おそろしく不利なわけで。ただの、勘というなかれ。そういう、センスを磨くのはいかがすればいいものか。もって生まれたとしか、いいようがないのだろうか。そもそも、メスには、その感覚と、かっこいいわるいを見極める、もっとも大切な感性が生来備わっているわけで。ところが。どうも、このごろ、そういうことをまったくわかっとらん、メスが多すぎる。自分を孔雀のオスかなにかと勘違いしておる。そうして、メスが鈍感になればなるほど、厳しく観る目をなくせばなくすほど、結局、生存競争がどこか間違った方向にばかり走ってしまう。どうしたものなのでしょうねぇ。もしや、オスメス関係なく、結婚しているものにしか、是、選挙権は許さず。なんて、なっても、もう何も変わらないくらいに、政治への期待がなくなっているのでしょうかねぇ。平和ボケ?そりゃ、すべてのひとがみな平等に、おんなじくらいにかっこよく、魅力に溢れて、いかなる競争も、戦いもすることなく、愛する伴侶に恵まれ、めでたしめでたし。って、なるわけないものなぁ。たぶん、小さいころから、当たり前に勉強ができたひとには、それができないひとがなぜ活字が読めないかがさっぱりわからない。運動神経のいいものは、どうして、咄嗟に機転の利いた動きができないのか、運動音痴をみて嘆く。もてる、もてないって、つまりは、持てる(キャパシティ?、器?才能?)、持てない、ってことなのかしらん。優しさは強さの同義語であるし、大きさ、深さもまた然り。ひとより、秀でる、優れるというのは、何者にも変えがたい宝物である一方。それは、苦悩と、使命感との同義語でもあることに、なかなかわかってもらえない。つまりは、ひとは、みな、苦労と苦悩だけは平等に、(それぞれの能力、器に見合ったレベルで)、請け負っている。そういうことなのでしょうね。でも、その苦悩、苦労を次にどう生かすか。そこにまた、かっこよさの差が生まれる契機が隠れているのがみそなのでしょうかねぇ。