なによりもまず。きのうは、ひどい長広舌。ほんとうにお詫びします。(でも、おかげで、ずいぶん、たすかった。)そして、ひとまず。応急処置にも、無事成功。ほかへの支障もないままに。ただ、ドクターからは、遅かれ早かれだけとの(最終)診断。遠出は避け、時間にも余裕をもって、なるべくお早目のご決断を。なんていわれてしまった。たぶん、そのお陰で、覚悟はできたようにも思う。こればかりは、粘ったって仕方ない。新しい心臓に移植するか、すべてを新しくするか。はたまた、しばらくにんげん、じゃなかった、はんどるをやめるか。である。あの、都会の幾通りにも行き方のある入り組んだ、ハイウエイの混雑状況を示した表示板を目に入れて、次の分岐点までの、ほんの数秒の間に、何通りかの選択肢を頭に浮かべ、ものすごく集中して、イメージして、その瞬間には決断して道を選ぶ!あの、高揚感というか、充実感がちょっと好きだ。無論、うまくいかないこともある。ただ、結果はどうあれ、決断からは逃げられず、そして、どんとこい!って感じで決断できたときの爽快感は、ことばにするのはちょっとむずかしい。っと、いうのと、こんどは違うが、結局、決断というのは、つきつめると、そのほんの一瞬のうち(の脳の直感なのか、こころの叫びなのかわからぬが)に、実は決まっているもののような気がする。それが証拠に、打つ直前になって、邪心が舞い降り、クラブを交換したあと、ナイスショットが出る確率(ためし)は、限りなく低い。人間は、自分のしらないうちに、潜在意識がきめているもののほうが、はるかに偉大で、深い洞察が隠れているもののような気もする。


と、こんなふうに、なんでもかんでも、大袈裟なところが欠点なのかもしれませぬ。恐らく、これは、ただのいいわけかもしれないけれど。お酒が好きな人と同じように(わたしには、まったくその味というか、身体的酵素欠落により、魅力がわからないので)、ほんのささやかな愉しみ。であり。20歳で親の支援を離れ、車のない生活は最初の一年だけ(もっとも、それまでの20年は同乗を含めて、一度もないわけでありますが)。もうひとつの、かけがえのない、マイルーム。自分だけの、自由(自遊、自悠)空間であり、音楽空間であり、おまけに、風を感じて、駆けることができる!特別空間でして。そういえば。プロを目指していたころ、あるひとに、あなたは、ひととしてはとてもやさしい、でも、そのやさしさが、勝負の世界ではかえってハンデとなる。たとえば、くるまでもいい、なにか、好きなもののために本気になる!っていう動機がないとむずかしい。そういわれた。的を得ていた。ただ、そのときもう、最愛のものは手にしてしまっていた。もちろん、くるまのはなし。ほんとに、我ながら、気持ちいい、というのが最大のエネルギーであり、同時に癒しでもある、天然(ボケ?)なので。安いからこれでいい。得をしたからそれでいい。という、いまこのときをないがしろにするのが気に入らなくて。得ってそもそもなんなのよ。こころの満足(こえ)を犠牲に、一見お金の節約に成功したことを勝利と見なす、どこのだれかがいったかしらない、ものさしに擬似満足しているだけじゃない。なんて、屁理屈おもっちゃう。どんなに安かろうと、どうでもいいものに、一円でも費やすのは、むしろ、お金に失礼。ほんとうに、自分の眼で、判断すること、気持いい満足を見つけることのほうが、ずっとずっと大切なのでは。。。(無論、四角四面にそうではないですが。臨機応変にという、意味ですが)。


人生とは、気持いい時間をもてるために、ときに辛抱したり、さぼったり、それを満喫したり、そんなことではなかろうか。やっぱり、動物のひとつでもあるから、本能が、気持ち悪いことや、身の不安を望むわけはない。自然に近づけば近づくほど、理屈ではない、気持ちよさを求め、そのために、頑張ったり、歯を食いしばったりする。ただ、その基準や、何を気持ちいいとおもうかが、ひとによって、違うだけ。と、書きながら、たぶん、これだけの、いいわけをして、やっぱり、こんどはちっちゃいけれど、ほんとうに、走るのが愉しい、特別な空間だけは、もち続けたいなぁ。と、こころが叫んでいるのであることに、いまきがついた。本来の意味は知らぬが、耳に響くその音からは、“出会い”を意味することばを連想する、その小さな空間に、憧れを抱き始めつつある。そんな感じ。そして、でも、焦らず、じっくり、あきらめず。気長にいきませう。いつかきっと、拓ける日がかならず、くるはず。そう、自分に、言い聞かせてもいます。