「勇ましいものはいつでも滑稽だ」。小林秀雄さんのことばを集めた本の帯にあったそのフレーズに、妙に惹かれ、思わず買って帰った。まだ、中身は読んでいない。深みのある箴言には、間違いないだろう。そんな気がした。
あ~も書こう、こ~も書こう、昼間の散歩の途中、あるいは、車の中で、はたまた、雑踏のなかで信号待ちをしているあいだ、こころのなかを去来した、いくつもの想いを、ゆっくり書こう、じっくり書こう。そう思っていたのに。
夜、近所のひとや本人宛てに好きな菓子をお店から送った旨、連絡したら、なんたることか、ありったけの愚痴がいきなりやってきて、面食らった。せっかく、穏やかに温めていた情緒が吹き飛んでしまった。なんともはや。
生きるとは、ほんに闘争である。いまがもし、戦時中なら。食べるものも、着るものも不自由しっぱなしだったら。いまみたいに、偉そうなこと言えたかどうか自分ではわからない。でも、事の本質はどうも違う。片岡義男さんの短編の中にテイカーということばが出てくる。
なんでも、与えないで奪うだけのひとのことだそうだ。私自身も耳が痛いが、だれしも、他人の自分に対する接し方、情緒は、大なり小なり、己の鏡なのだろうと思う。いい子ちゃんをすればいいということでは、無論ない。これをしたから、許してもらおう。ひとのこころは、そんな薄っぺらいものではない。
老いは美しいといったばかりだが、これは、ひとのそれまでの生き方や、苦悩や、こころの厚みや、にんげんとしての幅(器)にも関わってくるのだろう。こころ穏やかに老いることのできるひとばかりではないのだろう。こうして、望むと望まざるとに関わらず、そういう人を身近にするのも、神がくれた、ギフト(うれしい試練?)なのだろうか。
鋼鉄製のハートをいくつ用意しても、事足りないだけの棘がある。一つ屋根の下は、まず、無理である。ひとがひとらしくいられるためには、最低でも、スープの少し冷める距離がいる。無論、不自由が募れば、止むを得まい。公共のサービスを最大限に利用しよう。自分ひとりでしょい込んで、いい子ちゃんを頑張ってますなんていうのは、少し違う気がするから。労働的な世話のことも、移動の多い生活をするのも、ちっとも苦じゃない。むしろ、メリハリ、変化が有難い。何が楽で、何が苦かかは、そのひとそのひとで、受け止め方が違うのだろう。
結局、ひとはこころで生きてるんだと、つくづく思う。あのひとも、もっとひとを思い遣るのが自然にできるひとであったなら、恐らく、全く違う形にはなっていたろう。それも、仕方あるまい。みな鏡となってかえってくるのだ。なんて、一見、冷静に話したりすると、なんて、冷酷ひどうななんて思われるやも知れない。でも、大切なのは、事情を知らない人にどう思われるかではない。自分がどんな風に生きるのか。大袈裟だけど、毎日の小さな選択の中にも、そういうことの伏線や、土台があるのではないかしら。だから、なんと言われようと、出来ることは精一杯する。でも、できないことまで頑張らない。ただし、誠意は尽くす。あくまで、自分のこころに正直に。と、おもっている。(次回はもtっと、明るい話題にしてみたい。)