人生って、いったい何なのだろう?ふつう、ひとは、こんなことをおもわないのだろうか。それとも、こんばん何食べようかしら、とか、こんどの旅行はどこにしようかしら、とか、可愛がってるペットが死んじゃったらどうしようかしら、とか、そんなことを通して、結局は同じことを考えているにすぎないのだろうか。ただ、きづくか、気づかないかの違いだけで。本人はそういうわけでもなかったかもしれぬが、戦後を、ひたすら、余生のように、ほとんどの欲を捨て去るように生きていた(ように見える)父も、ひょっとしたら、同じように考えていたのだろうか。「旅へ出ると、時折、少年の日の光景が浮かび、自分は何をやっているのだろうかと、虚しい気持ちになることがある。」読んでいる随筆の中の一節。つくづくと、胸に沁みる。ただ、わたしの場合は、感傷にひたって、自分を哀れみ、その甘えの中に自分を置くことで、いまの自分への言い訳を考えているだけなのかもしれぬ。とはいえ、やるせなく、ただふがいなく、そしてため息をつく自分にまたため息をついている。ほんに、情けない。こんなことをするために、若い頃あんなにがむしゃらに頑張ってきたのか。そもそも、そんな風に考えること自体が間違っているのかもしれない。さらには、そんな風に考える時間があること自体、まだまだ、余裕があるということなのだろう。何もせずとも、食べられ、寝られ、生きられる環境にあるからこその、贅沢な悩みなのだろう。


100歳で、まだまだやり残したことがたくさんあると、鬱蒼たる杉林と対峙し、描いている老人の姿を見た。老人と呼ぶのさえ失礼な気もする。なのに、このわたしは~、と、そういう風に較べて考えること自体が愚かで、稚拙なことなのかもしれぬ。夢を信じて、わき目もふらず、ただたんたんと、毎日をたのしく過ごす。そんな簡単なことができずにいる。いまは、何もしちゃいけない、目立つことはしちゃいけない、欲張ってもいけない、そう、大袈裟すぎるくらいに、自分に錘をぶらさげて、息がつまりそうになっている。じゃあ、何をしてもいいといわれて、何がしたいというわけでもない。家のことが一段落するまでは、どうせ何をしても邪魔されるに決まってる、勝手にそう決め付けて、自分を縛っているのは、ほかの何でもない己のこころなのだろう。そりゃあおもう。もし、若い頃の願いのほとんどが思い通りに叶っていたら、少なくともこの齢で、こんな風には思わなかったろう。それが、いいことなのかそうでないのかは、ず~っとあとになってみないとわからない。ともあれ。ことほどさように、ものごとを考える性質であるわたしは、恐らく、気難しい人間の部類に入るのだろう。おまけに、食が細い。気難しいひとがみな、少食なわけでもあるまいが。無論、大好きな人と囲む食事は、それはもう、至福のときで、人生の愉しさの縮図みたいに思えるけれど、それ以外は、ただ、お腹が空いてないならそれでいい。食べ過ぎた時の苦しさの方が何倍もつらいから、余計に胃が小さくなる。漱石さんの気持ちが、この頃少しわかる気もする。


どんなことにも、必ず終わりはある。いまのこの状況が一生続くわけではない。恐らく、それがわかっているから、こんな風に、どこか冷静に、悩んだり、冴えない自分に半ば呆れたり、まるで他人事みたいに見守る気風をもちあわせたり、していられるのだろう。かみさまに、もし、ききたいことがあるとしたら、いまはこのままでいいのでしょうか、これでいいのでしょうか、ということで、でも、それはみな同じことを思っているに違いなく、同時に、だれにもわからないことでもあるのかもしれない。先のことが、そんな簡単にわかるくらいなら、だれも苦労はしないわけで。わたしのいけないところは、こんな風に先先とものごとを考えすぎること。それから、ひとも自分と同じように、ひとの“気”が読めるものと思ってしまうこと。ひとの上っ面だけの言動や、腹(に隠したつもり)の悪意や毒が、見えてしまうこと。だから、ひとの無礼な行為や、思慮のない言動に、いちいち腹を立てたり、こころを痛めたりしてしまうこと。ひとに嫉妬ができないこと。こちらに向けて嫉妬するひとを見ると、なるたけ距離を保とうと避けてしまうこと。ひとに、嫉妬しないでいられるひとって、きっとちゃんと、世の中にいますよね?ふつう、自分より優れた人をみたら、素直に尊敬し、あやかりたいなぁって思うものだと思うのだけど。だからって、例えば、女性とゴルフをしたら、せめてスコアは勝たないようにって、加減してしまうわたしの方が、ずっと可笑しなひとなのでしょうか。つまりは、いま、身近に、尊敬できる人がいないということなのでしょうね。あれれ。なんだか、思わぬ方向に筆が進んでしまいました。ともあれ、かように、いささかですが、こころのブラックホールに捉われて、どうにも、冴えない情緒を続けてちまってる、情けないきょうこの頃なのです。