だれしも、親にはいつまでも元気で長生きして欲しいと願う。それでも、老いて助けが必要とあれば、それは、当然、できる範囲で惨めな思いだけはさせたくない。そう思う。小さいころ、親を愛し、一途に慕っていたころの気持ちを思い出すと、尚更、なるたけ尽くしてあげたいと思える。それが、自然なこころである。だが。早く死んで欲しい?その耳を疑うひとこともさることながら、その時の目が忘れられない。私が居る間は、ひとりでしあわせになろうなって思っちゃダメなのよ。そこまでは、こちらが毒リンゴの深読みが過ぎたのかも知れぬが。こころの大きな支えが、その瞬間に音を立てて崩れていったことだけは確か。相棒を、絶妙のタイミングで放出したあとの、目もあの時と同じだった。ひとのこころには、だれしも悪魔をもっている。それは、理屈ではわかる。あたまでは。でも、ひとは、こころで生きている。それでも、親だから、なるたけのことはしてあげたい。でも、動ける間、一緒に暮らすのはどうしても無理。心の底の憎しみと、愛したいのに愛せない苦しみと。いつも、考えすぎると、こちらのこころが引きちぎられそうになるので、なるべく考えないように努めている。わたしが、いまあるのは、両親の愛情のおかげだし、小さいころ病気がちだったわたしは、ひといちばい世話をかけもした。そして、いまこうしてあるのも、だれのせいでもない。もし、母がもっと心の広い人だったら、とっくの昔に、夢を追いかけて海外に飛び出してしまっていたかもしれない。もし、現状はなにひとつ変わらずとも、せめて、こころの底から娘のしあわせを願うことのできるひとならば…。もう、よそう。どれも、たら、れば、にすぎぬ。恨み言は、口にすれば、結局、自分にかえってくるのだ。いまはただ、現状を見守るしかない。それではまるで、なくなるのをまっているようではないか。そういわれても、いまはただ、現状を維持することに、誠意を尽くすしかないのだ。いつしか読んだ、清張氏の小説の中に、「いつの世も、親はみな、子の犠牲になるもの」そうあった。う~ん。そうでない場合もあるのだろうか。いずれにしても、そう思う自分自身が嫌になりそうになるときもある。生きるって、ときに、ほんとうにむずかしい。
東京タワー。いかにもお涙ちょうだいのストーリーなんでしょ。ぜったいに泣いてなんてやるものですか。泣かせられるものならやってごらんなさい。そう力んだのもつかのま。わたしの涙腺が耐えられたためしなど、これまでにただのいちどもありませぬ。それどころか、ストーリーをとっくに超越して、自分を包む現状への感情が溢れすぎて、ほとんど、嗚咽でしたなぁ。子どもが泣くみたいに、背中で息してしゃくりあげるように布団に顔を押し付けていたっけ。また、あのお母さん役の女優さんが演技がたまりませぬ。あんなふうに、互いがうまく思い遣れたら、どんなにいいだろうにって。またまた、ないものねだりで。涙がぶり返しそうである。ので。きょうはこのへんで。。。おやすみなさい。