前略。五月の風さんへ。ご無沙汰ばかりですみません。今回ばかりは、決して、拗ねていたわけでもないのですが。どうしたわけだか、なかなかおしゃべりができずにいます。連休のハードジョブに疲れ果て、ひとより遅い花粉症に往生し、そのほか、とるに足らぬ小さな煩わしいことごとに、ときに傷つき、ときに腹をたて、ときに苛立ち、していたのは、その通りではあるのですが。ひょっとして、いつもながらの、詰めの甘さ、あと少しのひと踏ん張りが出来ないわたしの悪いところがでているのかしら。そう、思ってみたり。しています。ともあれ。こちらは元気です。いまだに、いなくなった相棒のことをときどき思い出し、涙を花粉症のせいにして、晴れの日はサングラスに助けられ、相変わらず喪失の傷を引きずっている、情けないおばさんです。ところで、お目にかかってから、もうすぐ一年になりますね。いつも、読んでいるので、とても身近には感じていますが、それでも、会いたくないといったら、嘘になります。もし、ゴルフは無理でも、ほんの少しでも時間をもらえたら、どんなに嬉しいでしょう。こっそりとですが、そう思っています。
ところで。愛についてときどきおもいます。おんなにとって、それは、ほとんど人生の核といっても過言ではなく、ほんとうにこころから想えるひとにであえるということが、どんなに素晴らしくかけがえのないことなのかは、これは、出会えた人にしかわからないのかもしれません。愛されたい愛されたいというひとはたくさんいますが、それが、愛することと同じ意味に気づくことの出来るひとは、案外少ないのかもしれません。それに、気づけた人は、決して、ひとに大きな声で自慢したりしないでしょう。それどころか、競争社会であくせくすることの意味さえ感じなくなってしまいます。それは、出会える前の価値観、社会観、それらすべてが音を立てて崩れていく位の大きな出来事なのです。まさに、篤姫さんの言葉を借りれば、女の一本道とでも申せましょうか。でも、これは、きっと家族を守るために戦場にでなくてもいい、おんなだからの贅沢な感覚なのかもしれません。そして、賢い女性は、きっとはじめからそれらを弁えていて、でも、決して自分の幸せを誇示したりせず、静かに愛することのしあわせを噛み締めているのでしょう。
なあんて、いうと、いささか調子に乗りすぎていますよ、そう叱られるだろうか。無口の後の、しゃべりすぎにご用心。なんだか、そういわれている気がしないでもなく。いささか、気が咎めないでもないのですが。。。ちなみに、表題は、「すいかずら」と読みます。またの名を金銀花。雪のように真っ白な花が、だんだん黄色味をおびてくるので、金と銀の花が一緒に咲いているように見えるからだとか。立夏も無事すぎて、風薫る5月。だれにも、月運なるバイオリズムがあるのでしょうが、どうも、なぜだか冴えないのがこの5月。何をしても上手くいかない。病気をしたり、怪我をしたり、ともあれ、何かと体調を崩しやすい時季であるようで。4月、6月は絶好調なのだけどなぁ。まあ。なにはともあれ。からだに気をつけて。がんばりませう。(そういえば、いつかガッツ石松さんが言っていたっけ。「チャンピオン(一番)になったことのある者は、その喜びを知っているから、あともう少しの踏ん張りが出来るものだ、勝てないものと勝てるものとは、そこに大きな違いがあるんだ」って。なんだか、身に沁みることばですねぇ。)