ほんに、ささやかだが、いいことがあった。車のスモールライトを自力で交換できた。ただ、それだけなのだが、とてもうれしかった。ばんざいしたいくらいだった。その方法と場所さえ、わかっていれば、どってことないことなのだが、ずっと前に作業を見ていた記憶だけを頼りに。2日越し。初日は、違うルートの中で、精一杯外れなところを外そうとしていた。押してだめなら引いてみよ、だが、まるで、ピラミッドを前に、一つだけ動くれんがを探してでもいるかのようだった。国産のそれも軽のものが代用できていたのだが、それが切れたので、また替えたかったのだ。純正だとその100倍する。値段もさることながら、それよりも、自分でできたぁ~っていう、達成感が何より嬉しかったんだな。細い細いルートを見つけてしまえば、そうそう、あのときも細いところから指を究極の隘路と格闘させながら、取り出したんだったな、って、思い出された。お陰で、全く関係のないフェイスのカバーまでとっちゃって、その外し方、取り付け方まで学習できちゃって…。最初なんか、おめめの部分がごっそり取れるんじゃないかって、グラスの部分をサングラス外すみたいにしようとしていたのだった。そりゃ、無理ってもんですよねぇ。いつか、カーステレオを交換したときも、そこの枠だけ外せば、結局できたのに、灰皿・エアコンスイッチ部はおろか、ミッションレバーの根元のカバーまで、外しちゃったんだもんね。でも、仕組みがわかるって、ちょっと愉しい。
ゴルフでも、いちどわかってしまえば、なあんだって。それまでどうやっていかたかさえ、もうわからなくなるくらいで。でも、わかるまでは、あ~でもないこ~でもないって、ひとつの枠というか、壁の前で、必死でもがいている。動かないドアを必死で開けようとしていたり、迷路の中でいったりきたり。でも、ひとつのうろこが落ちた瞬間。あ~なあんだそういうことかって。そんなところにかぎがあるなんて、夢にも思わなかったって、なる。もちろん、そういう右往左往も、決して無駄ではなく、それがあってはじめて、生まれるもので。なあんにもしないで、いきなりゴールなんて、そんなのちっともないのと同じだし。そうして、あ~、もうこれで完璧!って、思うけど、またもう少し成長すると、また新たなかぎの前にやってくる。だから、おもしろいのだろう。実は、この前、何年ぶりかで(いつかのアジアサーキット以来かな)三桁をマークしたときに、奇しくもそんな瞬間が巡ってきたのだった。あ~そうか、ゴルフってこうするものだったんだって。研修生ゴルフをしているうちに、いつしか、スコアを出すことにばかりとらわれていて、最も肝心なものを見落としていたようだ。ピンを一直線に狙わずに、いつもどこかで何かを計算して、少しでもスコアがよくなる(これは真っ赤な妄想なのだが)だろう狙い方、選択をしていた。恙無く、平穏無事なルートばかりを選んで。安全に出す、安全に載せる、安全に寄せる…。スコアがあるところで、伸びなくなるの元凶は、皮肉にもまさにこのことが原因なのだ。当たり前の中の盲点。常識の中の錯覚。だろうか。直接入れるのが目標。入ればパターなんていらないのだ。そして、パターは寄せるためのものでなく、一度で入れるために打つのだ。あとは、腕しだい。姿勢しだい。結果なんて、たいした問題ではない。なあんて、アマチュアだから言えるのかなぁ。
ひとの、気持ちをほぐすのは、ほんとうにむずかしい。北風と太陽にもあるように。迷路の出口を躍起になって探している人に、ひとやすみして、空を見上げるのを教えるのがむずかしいのと、おなじに。空を見て、太陽の位置を確認すれば、いま自分がどちらからきて、どちらに向いているか冷静に振り返ることができるのだが。そんな余裕なんてもてない。だれにもそんなときがある。何かを得ることと、失うことは、誰の身にも平等に起こる。でも、そのときどきで得る方(者)と、失う方(者)がある。本当は、一見するとそうでも、得るとき(あるいは失うとき)は同時に、自由や、あるいは不自由や、解放やあるいは新たなチャンスや、そのほかいろんな形の別のものを同時に失ったり(得たり)しているのだが、当人は、ずっとあとにならないとそれに気が付かない。その時は、目の前のものに夢中になっている。なにがなんでもって。そこに意地や、誇りやそのほかいろんな感情が絡んでくる。嫌ななものは嫌っていう、首を縦に動かすのはほんとに難しい。そのかぎは、思いもよらぬ足元にあったりするかもしれで。でも、たぶん、かたくななこころをほぐすのは、きっと、北風(強制)ではなくって太陽(自発)なんだろうなぁ。それには、時間も忍耐もたくさん必要とするけど、長い目でみたら、きっと何倍もそちらが近道、良道。徳のある道なんだろうなぁ。ひとは、とりわけアイデンティティに関することがもっとも大きい。ほんとうは、かりに名前さえなくてもそのひとの価値や存在はちっとも変わらないのだけど。友になれるっていうのは、もっともっと深いところの共感があるからで…。でも、その居場所をなくす(と、一見みえるだけなのだが)ことに関わることから得る痛手(拒否反応)は大きいのだろう。たとえば、仕事もそのひとつなのだろう。(つづく)