春ですねぇ。どうしようもなく春ですねぇ。旅をするなら、常夏、常春よりも、少し寒い季節、ところがいいなぁ。そんな風に思うようになったのは、少しはおとなになったからだろうか。なんて、何をするでもなく、ただ、ぼぉ~~っと、休日を過ごしている。いなくなった相棒のことを思い出すと、いまでも、ハンドルを握りながら突然、あふれる涙に戸惑うこともあるけれど。さいしょは、年寄りの心に棲む魔物から救ってあげられなかったことを悔いてばかりいたけど、いつしか、それは、自分の役目を終えたことを悟って自らの意思でそうしてくれたのかなぁ、と、少しは柔らかく考えられるようになっている。それでも、正月にあったとき、驚くほどの力で胸に顔を押し付けてきたときのことが思い出され、あれは、何を伝えようとしていたのだろう~、なんて、思い始めるとやっぱり涙が止まらない。生きてる意味を考えたって、そんな簡単にわかるくらいなら、だれも苦悩しないよなぁ~、って、わかっちゃいるけど、考えないで、食べることだけ考えていられるひとにもなれないよなぁ~、って、おもう。むずかしいですねぇ、生きるって。
本を読むのが好きな人は、だれも思う。のんびり、ゆっくり熟読できる時間と空間があればいいなぁ~って。あれをかたずけてから、これを済ませてから、そう、日々の雑事をやりくりしてたら、いつまでたっても、むずかしい。それも知ってる。だから、本だけもって、ほかには何にもない非日常空間への旅でも敢行しない限り、無理である。電車や細かな待ち時間を使っての“読む”は、知識補充や、ささやかな気分転換程度なら可能だけど、至近距離からの、やましい視線や空気への警戒を怠らずにせねばならず、とても、理想の読書とは程遠い。では、長閑な田舎なら、大丈夫かといわれたら…。そうでもなく。特段に、不幸だとおもうことがないなら、それはしあわせだということ、なのだそうだ。ひとは、無意識に、望んでいることをことばにして口にするのだとか。とすると、しあわせということばをよく、している気がするわたしは、まだ見ぬそれを、望んでいるということなのだろうか。ともあれ、いま自分は恵まれている、実際そう思っているし特段の不足や不満を感じているわけでもない。なのに。いや、だから。なのだろうか。ひとは、みんなそうなのでしょう、どんなときでも、ないものねだり。わかっちゃいるのにねぇ。ふと、ため息がでて、そんな自分にまたため息。困ったものです。
ところで。こんなことを言うと、水をさすみたいだけど。いつも、少しの違和感を覚えるのだ。たとえば、オリンピック。個人競技は素直に応援できる。もっとも優れた人が勝者になる。国籍は関係ない。プロスポーツ。これも好きだ。心技体、これの充実からもらえるパワーとエネルギーはひとを元気にする力がある。ドラマもある。いろいろな国の選手がひとつのチームに入り混じって互いに力を合わせて戦う。うつくしい。でもね。国別対抗。代理戦争?。いつも、おかしな(不穏な?)空気が見え隠れする(気がする)。やっぱり必要なのだろうか。ひとは、だれかを打ち負かす、そういう鬱憤をどこかで晴らさねば生きられないのか。国を、国旗を背負ってたたかうというのに、どうも、素直に応援する気になれないのは、父が経験した戦争の傷をひきずっているたんなるアレルギーのせいだろうか。自分でも、よくわからないけれど、どうもいいようのない複雑さを感じるのは、わたしだけだろうか。スポーツは勝つことを前提(目標)にするものであるのは、無論だけど、う~ん、なんだかなぁ。やっぱりうまくいえないなぁ。もちろん、15年前に、カリブの島で、必死になって9回を完投する機会をもらえた元少女としては、だれよりも、魅力的なその球技を愛してはいるのだけどなぁ。(伝えることのむずかしさを痛感しますねぇ。)