嗚呼、春になった。そう、おもう瞬間がある。春が来た。春が来てしまった。春になってしまった。夏にも、秋にも、冬にも、そんなふうに思うことはないのに、どうして春にだけは、そんな、なんともいえない風情というか、複雑な感慨といっしょにいつもやってくるのだろう。春がめぐってくるたびに、そんな情緒的なことを、ふと思ってしまう。厳しい寒さが去り、手放しで嬉しいはずなのに、どこか、もう戻れないさびしさのような、待つ楽しみがなくなってしまったせつなさのような、かなしいきもちが入り込んでくる。何かが始まるということは、同時に終わりが近づくということだからだろうか、なんていったら、おへそが曲がりすぎなのかしらん。ともあれ、春には、ひとのこころを、どこか思いがけず繊細にするちからがあるらしい。満開のさくらは、素直にとても美しい、でも、その反面、どこかで、あとは散るしかないという哀しさと、絢爛するぎるその姿の圧倒感に、一種の怖ろしささえも感じさせる。なあんて、そんなことをこのわたしが思ってしまうのだから、春にはひとを狂わせるちからがあるのかしらん。
と、まあ、すべては春のせいということにして、ふだんは気恥ずかしくていえないことを、言っちゃうのもいい機会なのかもしれませぬねぇ。「愛は自然にまかせて内側から生れてくれてくるものではない。ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。 女はそうおもう。自分はいつでもそうしてきた。だが、男にはそれがわからない。」と、始まる『人間・この劇的なるもの』(福田恆存著)の書き出しに興味を惹かれて読み始めるのだが、あまりの難しさにいつも挫折してしまう。13ページあたりで。。。では、女の人が書いた恋愛論が面白いかというとさにあらず。わかりきったことを再確認してもちっともわくわくしない。で、なんどもなんども、なんとか言わんとしていることを理解したいともがく。でも、こころのどこかでは、あきらめなければ、いつかそのうちなんとかなるでしょう、なあんて気楽におもってる。それに、そんな簡単にわかってしまったら、面白くないじゃない?とも。なにごとも、困難に向うときが、いちばん愉しく充実してるんだ、そんな気もするし。。
休みの日は何をしているの? 聞かれる。きっと、これは嬉しいことなのだ。世には、きっと聞いてほしくても聞いてもらえぬひともいるのだ。たぶん。いや、ひとは、自分が聞かれたいことを相手に聞くのか?、う~ん、ふだん、そんな複雑にものごとを考えたことないから、よくわかりませぬ。まあ、いいか。で、自然に目がさめるまで寝る。事情が許すときは、ですが。これが、まず最高の至福。でも、このところ、早起きなので、残念なことにいちどいつもの時間に起きてしまうのねぇ。で、憚りへ。カーテンを開けて朝日をちらりと眺め、まだ、眠れそうなときはまた布団をかぶる。二度寝。たいてい夢を見る。心の中の気懸かりが分かりやすいくらいに鮮明な映像になる。まあ、ちとうなされる、かな。もうすっかり平気に近いが、案の定いなくなった相棒が出てくる。泣きそうになる。で、目が覚める。でも、そんなこころと裏腹に、充分に寝た満足感が少し気だるいからだを覆う。ゴミだしと、洗濯機の始動を終えたら、直火式のイタリアンエスプレッソを沸かす。ベット・ミドラーをかけながら、ベランダのチェアーでカップ片手に優雅に読書、なんてできたらいいでしょねぇ。ベランダ~は、フィクションなんだな。ともあれ、自然の風物と遠い環境にいるときは、休みになると車(かバイク)を走らせ、遠くの海を眺めに行く、ってのが、半ば習慣だったけど、幸いなるかな、ストレスの少ない環境にいると、反対に街に行くのが適度な刺激、程よい気分転換で。でも、疲れているときは、ほとんど家でのんびり過ごす。人生の味わいについて思い巡らせながら(?)(なんてね。)これが、最高の贅沢。そんな気がしている。