紅葉の映えていたころ、旅先で求めた詩集を開いた。『女がひとり頬杖をついて』。どこかで、見覚えがあるような気がしたそのタイトルに、手が伸びたのだった。そこに収められた一部を紹介したい。「ひとがいるばかり/ただ ひとびとがいるばかり/言葉が違い/風俗が違い/風や/雪や/陽の分量が違うくらい/夜になれば灯をともし/朝になれば働きに出/子を育て 死ぬ/やさしくされれば波紋のように嬉しさひろがり/辛くされれば忘れないぞと拳を固める/なんとまあ 似た者どうし/理想の国も/たちまちに風化/なにごとも永くはつづかないのだ/だらけたり緊張したりが生物の呼吸なのだから/過去に釣瓶をおろし/ゆったりと一杯の水も汲みあげられない愚鈍さ/どんぐりの背くらべ/幼い者の教育なんて/どのつらさげて どの国も~」と、つづく。字面だけを追ってしまえば、強烈パンチの連続に見えなくもないが、なぜか、読んでホッとする感じを覚えた。だから、頑張れ、あきらめるな、夢はかなうんだ、と読むのは、いささか都合がよすぎないでもないけれど、ともあれ、現実をきちんと見据えて、地に足つけて、自分らしく生きればそれでいいのだ、そう読んでも、いいのではないかな、やっぱりいささか勝手ながらそんな風に眺めている。
最近書いたものを見返すと、ちっとも読書ができていないのが、一目瞭然。あるとき、ぼんやりとしながら、学生の頃を思い出していた。嗚呼、あの頃はよかったなぁ~、あんなに、のほほ~んと、若さなんて一生続くんだってなくらいの勢いでものごと考えてたよなぁ~、って。で、ふと、思った。いまと何が違うの? 何であのころにあって、いまにはないものがあるみたいに、勝手に思い込んでるの?って。何も変わらないじゃない。もし、そうでないと思うのなら、それは、自分に勝手に錘をつけてるだけじゃないの? 分別と諦めを取り違えて、あたかも大人になるってのはそういうこなんだ、みたいに思っているだけじゃないの?ってね。そういえば、確かに、何も違わないよなぁ。あの頃も、いまもきちんと自活できてるし、そりゃまあ、寮は安かったとか、奨学金の恩恵があったとか、休暇は抜群にあったとか、そういうのはあっても、自分の時間を持てる自由も、旅する自由も、考える自由も、なにひとつ変わらない。むしろ、こころの体力?なんかは、増えていこそすれ、減ったものなどないじゃない?ってね。むしろ、あのころの、肩書きのあるものにならねばならぬ、みたいな、変な義務感や見栄の空しさに気づけているだけ、もっと自由な自分でいられているのじゃないか、って。そう考えたら、誰だって、いつだって、そう気づけたときに、若い頃やり残したことに思い切って挑戦してみるって、決してみなが勝手に思い込んでいるほど、難しいことではないのではないか、なあんて、思える。ひとは、勝手に自分で自分を縛ってしまうんじゃない?その詩集を読んでいるうち、ふと、そんな感覚が芽生えたのが、ほんとに不思議だった。
「あきらめないで 夢は必ずかなうから。」そんなフレーズの一葉を、机の前の壁に加えた。見るたびに、慰め、励まされ、勇気をもらえ、力がわくような気がするから、ほんとに、ことばのちからは不思議だ。もどかしさや、(余計な心配をかけていやしないかという)心配を、往々に去来させながら、もっと、近くに感じられたらどんなにいいだろうな、なんてふと思ったりしながらも、でも、こうして伝えられていることが、何よりもたいせつなんだと、自分に言い聞かす。想いはきっと、風に乗って、いや、目に見えないちからでもって、伝わる強さをもっているのだろう。と、書きながら、ほんとは、もっと軽妙な話題で、こころをほぐすことができたらいいのに、と、思ったりもして。。う~ん。やっぱり、もどかしいのぅ。ともあれ、元気でいることが、なにより大切で。苦労は、きっと、たいせつなもののための、しかるべき準備であるはずなんだ。そんな気がするから。