20年ほど前に書かれたエッセイのようなのだが。ひさびさに乗った特急列車でのお供に、目に付いた一冊を求めた。『美しい時間』。なかなか面白かった。ちょっと失礼だが、その、繊細さの余り垣間見えない風貌から、作品を読んだことはなかった。限りなく透明~は、いつか読んでみたいとはおもっていたけれど。。ともあれ。そのひとの書いたエッセイを手にする機会を得たのだった。『すべての男は○○○である』。○には、強調のドットが打たれた上で、消耗品と入る。なんとまあ、挑発的な。ともあれ、読んでみた。恐らく、書かれた頃の年齢にすると同じくらいではなかろうか。と。前置きはこの辺で。若さゆえの思い切りと、気前のよさに驚きつつも、いい意味での感覚や思考を刺激されるような気がする。恐らく、男たちよ、女たちよ、もっとしっかりしんしゃい、というメッセージが込められているように思えた。


たとえば。「才能には理由がない。才能のない連中は理由を欲しがる」だとか。「金と時間の浪費がないところに、アイデアは浮かばない。生まれるのは、せいぜい小さな小さな生活の知恵にしかすぎない」とかね。そこで。それらにちょっとばかり触発されてしまったのかもしれない(ということで)。才能について、思う。恐らく、才能がないから、そんなに椅子にばかり固執するなのかしら、ね。なんて。おんなが軽々しく意見しちゃいけないことかもしれませぬが。ほんとうに才能の偉大さを思う。ほんとは、それぞれにそれぞれの才能はあるに違いないのだけれど。他人と比較するとか、世間のものさしを頼りにひとに自慢できるものがほしいだとか、そういう少し、自然とは違うことをするから、ややこしくなるのでしょうかしらね。ただ、たとえば、もてる・もてないというのは、かっこいい・かっこわるいであり、センスのあるなしであり、恐らく、残酷だけど、その素質は、生まれた瞬間に、その環境や境遇も含めて、かなりの部分が決まっちゃっている。女心をくすぐる可愛さ(男の子に可愛いというのは失礼なのだけど。)なんていうのは、5歳の子でもある子はあるし、ない子はないし。


たとえば、100万人の男の人に好きだといわれても駄目なのだ。その中から、たったひとりの、世界中でいちばんかっこいいひとを、見つけて、そのひとりに出会うことができなきゃ、ちっともしあわせじゃないのだ。おんなは、つくづくわがままな生き物である。(だから、ステージの真ん中にマイクを静かに置いて舞台から去った、あのひとが、もっとも美しいと思えるのだ。)なので、どこかのテレビドラマの主人公に嬌声を上げている方たちを見ていると、失礼だが、そういうことを自ら放棄してしまったように見えてしまわぬでもない。孔雀をみても、わかるように、メスが、まるで100万人の目を惹きつけたいみたいな華美な服装をしてもはじまらんでしょ、と口には出さぬが、思わぬでもないわけで。件の本にもあったけど、多分、ほんとうに賢くて、そこいら辺のことをちゃんと弁えている素敵な女性は、そんなことわざわざ解説したりしないのでしょう。わかっているひとだけが、わかっている。ゴルフだって、本当に上手い人は、肝心なところを自ら教えたりしないように。(憬れのご夫婦のドラマが始まるので、急いで書きました。乱筆お許しを。それにしても、素敵なおふたりですねぇ。性分がおてんばのせいもあるのでしょうか。とても、そのスタイルに惹かれてしまう。それになにより、あんなに素敵な方を伴侶にしていらっしゃるのですもの。)