活字だけで、うまく伝えられるかどうかわからないけれど。ともあれ。悩んで、悩んで、悩みぬくと、あるとき、パコーンと思いもかけないロングパットが決まったときのような、あるいは、まったく何も見えないと思っていた地下道で、思い切って寝転んだら、目の前に真っ青な空への入り口が突然現れて、何かを一気に悟ったように思える瞬間があるような、つまりは、腹が据わるというか、なにものも受け容れる覚悟ができるというか、そんな瞬間があるものでして。つまり、わたしはあきらめない、わたしはどこまでいってもわたしとしてしか生きられない、そうわかる瞬間があり。ただ、あきらめないといっても、なにがなんでも、どんな無理強いしても、なんていうのではなくて。時が来て、自然と叶うものもあれば、頑張ってもどうしても叶わぬものもあり。最初から、そのどちらかしか、絶対に嫌だ、なんて、意固地になるのではなくて、流れに任せる度量を持ちたいという気持ちで。だから、もし、どうにも苦しいときは、遠慮なく。そういう気持ちで。すべてのひとが出逢えるかどうかしれない、一生に一度のものは、変わりようがないけれど。どうあれ、それが憎しみに変わるなんてありえないわけで。だから、なにがあっても大丈夫。なんて、さんざん、ひとりで、大騒ぎして、余計な失言もいっぱいしているわたしが、いうのも、おいおい調子がよすぎるぞ、と、叱られそうなのだけれど。。。
こうして、全世界に公開しながら、こころの機微を書き連ねるというのは、考えてみたら、とても恐ろしく気前のいいことのようにもおもえ、でも、べつにやましいことなどなにもないから、まっ、いいか、これもきっと、文章を書くということの、ひとつには変わりないのだろうから、ともおもえる。でも、ときどき、行間を伝えきることの、難しさに直面して、苦いおもいをすることもたくさんあるのだな。書く、ということを仕事をしているひとは、みな味わっていることなのかも、しれない。いや、書くということだけでなく、ひとはみな、気持ちを伝え合うのに、おんなじ苦労や努力をしているのだろう。そう、いつの時代でも。こんなに戦争のない時代と国に生まれて、いったい、なんの不満があるのでしょう、なのに、ひとはどこまでいっても、ないものねだりで、ほんとに、なさけないと思うけれど。でも、きっと、それがひとなのでしょう。好きなものは好き。だめなものはだめ。いやなものはいや。きっと、そんな葛藤を繰返していくのが、ひとなのでしょう。こんなに多くの自由に囲まれた時代に生まれてくることができて、なんの不足がありましょう。なのに、それでも、苦悩や苦労は尽きぬもの。それでもけして、投げることなく、かといって、頑固に、欲張りに、なりすぎることなく、柔軟なこころを持ち続けたいもの。ひとを愛せるということの素晴らしさを、そしたら、どんなことでも許すことができるんだという素晴らしさを、世界中のひとに伝えることができたら、どんなに素敵でしょうに。。。
気が付くと、きっと失意のうちになくなったのであろう、浮かばれぬ先祖のたましいたちに呼びかけるような文面なっていて、自分でも、ちょっと可笑しな気分。そういえば、若い頃はふと思った。あ~、跡取りの兄がいたらなぁ、と。そしたら、とっくに外国に行っちゃってたかなぁ、と。でも、考えてみれば、何が何でもこれを極めるんだ、っていうちゃんとした夢があったわけでもなんでもなく、ただ、華やかなイメージに憬れていただけでもあり、どこかに、もっと居心地のいい場所があって、のびのびできる場所があって、きびきび動いても足を引っ張られない場所があって…、そんな、甘ったれた夢物語を描いていただけかもしれない。いやいや、ひょっとしたら、パリっ子もびっくりの、華麗な貴婦人に颯爽となれちゃってるかもね(、なんて、これは、くだらない冗談です)。そういえば、大学に行こうとするときも、就職をしようとするときも、いつも、ちょっとだけひとより多くの試練が待ち受けていたような。思えば、それらも、先祖たちの、声なき声だったのかもしれないなぁ。そう思うと、なんとなく分かる気もして、ふっと、肩の力が抜けた。いつの日か、なん年先か、いやなん十年先か分からないけれど、ひとりになったら、あのターシャおばあさんみたいに、静かに庭を手入れしながら暮らそうなぁ、そう思っている。無論、健康な命あればこそ、だけど。でも、おばあさんになるまでは、相変わらずの、おてんばなわたしなのでしょうかねぇ。う~ん。ともあれ、夢があるって、なんて素敵なのでしょう。。。