「しおどき?」 「なにを言ってる?」 「いや、引き際じゃなくて、ほんとはいいころあいって意味だってあったから…」 「で?なにが言いたい」 「どうしたらいいのかなって」 「また、そこかい。しまいには怒るぞ」 「ちがうよ。車のこと。そろそろ手放した方がいいのかなって。保険がくるたび思ってた。あと、もうちょっともうちょっと、って。なんか、新しいものを得たいなら何かを捨てないと…いけない気がして…」 「で、お前はどうしたいんだ?結局、みんな同じことじゃないのか?焦って、何かを変えようともがいてる」 「うん。たぶん、これもやっぱり欲なんだよね。なんとかして、願いをかなえられないものかって、思ってる」 「だったら、ひとりであれこれ悩んでないで、ほんとうに聞きたいことを、ちゃんと聞けばいいじゃないか。」 「うん…」 「怖いのか?」 「そうかもしれない」 「何を言ってる。そうじゃないだろ?」 「うん。ちょっと困ってる。怖いというより…。そりゃあ、どっちの覚悟も同時にするってのは、めちゃくちゃ難しい。それにそれじゃあ、そのへんの安っぽいのと同じじゃない?」 「違うから、悩むってか?」 「うん。どっちにしても変わらないし。どんな形でも、許される範囲でいいとも…」 「本心か?」 「そりゃ、ちゃんとしたい。願いが叶うのが一番だけど。この世には、掟があって…、許されるものと、そうでないものが…」 「何をわかったことを言っている。もっと、正直になれ。恰好つけるな」 「信じてるから、だから、こんなこと言って、がっかりさせたら…って」 「つまりは、恰好つけてるんだ。ちゃんと、勇気を出して当たってから、恰好つけるんだ。言ってることわかるか?」 「うん。ちゃんと通じてる」


「あの日記を気にしてるのか?」 「うん。ちょっとショックだったかな。でも、私がいつか悩んだときのために、書いてくれてたのかなって。勝手に思ったけど…」 「まあ、そこまでは。でも、母親があの子は結婚できないできないって、それは絶対口にしちゃいかんことだろ?それとも、知らない方が良かったか?」 「ううん。知ってよかった。と思う。別に、だから恨んで、もう何もしないなんて思ったりしないし。まあ、いまだから言えるけど。何年か前なら、本気で勘当されたいって思ったかもね」 「やさしすぎるから苦しむんだ。母さんはあんなひとなんだ」 「わかってるよ。別に憎んでるわけじゃない。育った環境を思えば、多少は無理もないし」 「だったらいいが」 「でも、ちょっとは思ったね。やっぱり、おんなのひとの怨念は怖いから。母さんが生きてる間は…って。ひどく奢ったこと」 「それは違うぞ。でも、この世には自分はいいからなんとか…って、強い愛を持てるひとばっかりじゃないんだ。自分はどうなる?自分は見捨てられるんじゃないか?って、愛を育てられたらなくていいはずの不安にいつもおびえてるんだよ」 「そんなことないって、いくら言ってもだめで…。だから、ちゃんと考えてる。本当に不自由になったら、近くに住めるようにするって、いくら言っても…」 「まあ、ほんとは半分分かってるのに。甘えてるんだ。老いると言う事は、何かと心細いもんなんだ。ともかく、ひとりで悩むな。ちゃんと相談しろ」


「仕事、もうすぐなくなるかもしれないって?」 「うん。なんとなくの予感だけど…」 「だから、いまこんなに急にくよくよしてたのか?」 「うん」 「どうしてそれを早く言わない?」 「沈黙の意味を…」 「沈黙がなんだ?」 「沈黙には深い意味があるような気がして…」 「そりゃ、あるだろ。でも、そんなことを気にしているときか?」 「タイミングを狂わせるのは、よくない気がして…」 「また、恰好つけて。いい加減、もっと弱いところも素直になれよ」 「そう…だね」 「で、どうするんだ?」 「それをね。考えてたら、この堂々巡りのブルーがはじまったって、いうわけ」 「あの義従兄のことばか?」 「うん。いい加減何もかもあきらめてさっさと家に帰れって。酷いでしょ?」 「ああ。ほんとうに悩んでいるのはこっちなのにな。本来なら、自分が家を継ぐべきだったのにって、負い目が裏返ってあんなこと言わせたんだ。気にするな」 「別に、気にしてないけど。お陰で、わたしは、先祖にたくさん守ってもらえてる」 「そうだ。家のことは簡単じゃないが、でも、焦って決めることもない。自分を殺して生きてもいいことはない。もっと、長い目でみないかん。にんげん、いつどこでどうなるかわからんのだ。理屈や大義だけをかざしても、いいわけはない。きちんと供養するきもちのほうがずっと大事じゃないか」 「そう思う」 「で、仮に短い間でも、一度帰って、母さんの気を静めるのも悪くないってことか?」 「うん」 「それで、どうしようどうしよう?…か?」 「うん」 「覚悟とその準備をするのはいいが、どっちにしても結論は急ぐな。ちゃんと納得できる形を、探す努力をしてからでも、遅くないのではないか?その最善の方法が、いまはしばし待てなら、それでもいいのじゃないか」 「うん」 「4月になれば、何かが動く、そんな気がするけどな。それに、仕事は、その気になれば、どちらでもなんとでもなる。そうだろ?」 「うん」 「まあ、いちど勇気を出して、ちゃんとそういうことをきちんと伝えたらどうだ?」 「勇気?」 「そう。これがいいしおどき、なのかもしれんだろ」