風景というのは、それを見るひとのこころのあり様も映すものなのかもしれない。だから、素敵な風景をみることは、そんな景色に出逢うことができたというだけでなく、その美しさに気づくことができた、あるいはそれをそう感じることができるだけこころも綺麗でいられたんだ、という、二重の意味でしあわせであるのだろう。ひとは、みたいものを見(つまり見たいと思うようにしか見られないということで)、聞きたいものを聞き、読みたいものを読むというのをどこかで読んだ。それから、ひとはふだんとてもささやかなものたちに支えられて、平穏でいられているということ。そのささやかなひとつが突然欠けただけで、ありもしない不安まで呼び起こして、みずから不幸なこころをつくってしまうものである、ということ。なくしてはじめて、そのあたりまえの有り難さに気がつくのである。それでも、たとえそんなときでも、やみくもに周囲にあたったり、ほかのものを妬んだりしないでいられたら、それだけでも、成長できている証しなのだろう。きっと、どれもこれも、愛するという気持ちを教わることができたからこそ、そんな気がしている。
ひとが、至福の時と感じられる瞬間というのは、たぶん、そのときは、つかの間でも、あらゆる欲から解放されているからなのだろう。ものすごく美味しいとか、美しいとか感じているときは、飢えの気持ちは露ほどもない。だから、あ~つらいつらいと思いながら、そんなときでも、そのかなしみに集中しきれないで、わたしはこの先どうなるのだろう、とか、ずっとこのままだったらどうしよう、とか、いや、きっと、つらいことのあとにはいいことがまってるんだ、とか、つまりは、どこかで結局は自分の欲について考えている自分の恥ずかしさに気がついた。ひとは、そのひとそのひと相応の、徳や業に見合ったかたちで、生きられるようにしか生きられないのに。はなれていても、それぞれの気持ちが変わらなければ、いつか、その(運命と軽々しくいうのは憚れるが)かたちにふさわしいかたちで、時間をもつことはできるだろうし。あと少しだろうか、それとも…、と、ともすると100か0かみたいなこころの乱高下に、翻弄されているのは、こころの持ちようが間違っていたのだ。と。こうして、気持ちのありようを伝えられる手段をもっていられるのも、ひとつの至福に違いないのに。こうして、いつも、信じることの大切さと難しさを教えられている。
尊敬しているある方が、ひとはみな変わっていくんだ。いまがいちばんいいからずっとこのままいたいと思っていてもそれは叶わない。だったら、少しでもいいほうに変わろうじゃないか。と、とても素敵なことをおっしゃっていた。たぶん、ひとは、日ごろの小さな小さな習慣とか、心がけとか、気の持ち方(つまりは何気ない所作)でできあがっているんだと思う。それをひとことでいうと、佇まいになるのだろうか。ずっといままでこうしてきたんだから、いまさら~、なんて思ったらいけない。遅くなれば成る程、変えることに勇気も覚悟もたくさん要るようになるけど、でも、気づくことができたなら、まずそれだけでしあわせで、絶対無理と最初は思えることでも、ほんの少し変えるだけで、みるみるうちに目に映る世界が変わってくる。そして、背中の美しいひとを見かけると、それだけでホッと安心できたりするのは、そのひとの心がけが時をかけてつくったシルエットが、時を重ねることの大切さを証明してくれていることへの安堵でもあるような。そんな気がする。ほんとに、かなしみは、いろんなことを教えてくれる。(いつも、気にかけてもらえて、ほんとうに感謝しています。ありがとう。です。)