「ただ好きになるということは、だれにでもできる。だが、ほんとうにだれかのことをあいする、おもいつづけるということは、だれでもかんたんにできることじゃないんだ」。かつてのドラマで、愛するひとをなくした主人公がそう叫ぶ。戦地に散った友への義をたて、かたくなに家族をもつことを拒んできた戦中派のひとりの男が、そういって、仕事も住まいもすべてを捨て、北の果てへ列車で向かう。まだ新幹線などない時代。再放送だったが、19の春に見た。わけもなく動揺し、胸の奥の方をぎゅーとにぎられたような、そんな感覚が残った。
かなしみというものは――、どうして自分の身に起こるのだろうと思うことでもなく、あのときあーすればよかったと悔いることでもなく、どうしてこんなことになってしまったのかと忸怩することでもなく、あるいは、さらにいえば、無念だったにちがいない相手の気持ちがどんなだったろうかと思いを馳せて、いたたまれない思いに包まれることでもなく、こうして身をもって教えてくれたことはなんなのだろうかと解釈を求めることでもなく、どんな現実でも受け止めるしかあるまいと己の心に言い聞かせることでもなく、また、慰めたり、忘れたり、あるいはあきらめたりすることでこころから消し去ろうと努めたりすることでもない。もとより、そんなものとはまったく違うものだ。ただそこに、生がある、死がある、というのとかわらない。ただそこにあるのだ。むやみに、酔ったりするのは存外だし、だからといって目をそらして、そこから逃げたい救われたいと願うことでもない。共に生きる。胸に迫る衝撃度は、無論、時の流れとともに、角がとれ少しずつやわらかくなっていくかもしれぬが、生ある限りいっしょにある。ともにあるしかないのだ。
気持ちというものは、ことばをこえたもので、永遠になくなることはない。およそ、生きとしいけるものは、いつかかならず生をうしなうけれど、想いというものや気持ちというものは決してなくならない。この世にあるものは、いつかみななくなるんだと、思ってきたけれど、そうじゃないんだと悟った。想う気持ちは、なくなることはない。部屋のいたるところに、小さいけれど、彼を撮った写真があって、正直つらい。今は。ただ、やみくもに、涙する時間は、でも少しずつ減ってきた。かなしみというものは、ひとりで見つめることしかできないものだと思った。同情を求めて簡単に癒えるものではない。もちろん、だからといって、ひとの言葉に耳を貸さないというのではない。むしろ、これほど、ひとのきもちがありがたくうれしいこともない。ただ、静かにみつめていくしかないとおもう。最初は耐え難いと思えども、少しずつ冷静にみることのできつつあるものと、ひたすらこんきよく共に居るしかないのだろう。(彼らはことばを話さない。でもだからこそ、いつわりのない気持ちを通わすことができるのだ。いや、いつもふたりでいろんなことを話していたとさえ思うし、あれをしてくれたから好きとか、これだから嫌いとか、そんなことではなく、君がただそこに居てくれるだけでいいんだよ、その存在そのものがいとおしくかけがえのないものなのだよ、きっと愛ってそういうものなのだろうね、と、そういう気持ちに自然にさせてくれたのだ。)気持ちは、理屈じゃない(と思う)。