今回のことはすべてわたしに責任があると思っている。前回の脱走騒ぎがあったときにも、母のこころにさした魔に、薄々気づいていながらも、それでも、わたしがひきとってしまえば、ひとりぼっちになってしまったと余計に淋しくなるだろうと、勝手に言い訳をして、現状打破をいちにち伸ばしにしていたわたしが悪い。こういう結末を、前回の伏線で、まったく予想しえなかったわけでもないのに、敢えてそんなことは起こるまいと、安易に現状に甘えてきてしまった。それでも、そんなことを母に口にしても、彼女のこころには届くまい。母はひたすら自分を責め続けている。生きているのがつらい、とまで。こちらもせめて、何事もなかったかのように振舞うのが大人なのだろうけれど、どうしても、間があくと涙がこぼれてどうしようもなかった。
母は目の前で起こったことだけにこころを病んでいるが、きっとことの深層はそうではないような気がしている。どうして、そんなにいつもひとのこころを平気で傷つけるようなことを口にするのかと、問うてみれば、悪気など全然ないという。おもったことがすぐ口をついて出るのだという(つまりは、こころのままにことばになっているということなのだが)。言われた相手の状況や気持ちを考えて言うということは、いちどもしたことがないという。ことばは刃だと、言っても今更わからないと。結局、その刃は言った本人のところに還ってくる。だから、もっと自分に優しくしろ、もっと自分を大事にしろ、そうすれば、もっとひとのしあわせを素直に願えるようになるから、とわたしがいくらことばを尽くしても、どうしても届かない。
子供のしあわせを願わなくっちゃいけないと、頭ではわかっているのだという。でも、子供がどこかに行くようなことがあると、自分がひとり取り残されやしないかと、どうしてもそのことばかりが先にたってそのおもいから離れられないのだと(粘りに粘ってそこまで正直に言わせる、子供もひどいのかもしれぬが)。そこに固執する限り、だれもしあわせにはなれないのだよ、と、だれかのしあわせをこころから願えたら、自分のこころがすっかり綺麗になれるのだよ、と、どんなに懇々と言っても、どうしても一緒に暮らしてくれない子供のことが許せないらしい。子供は子供で苦悩している。どうしたら、親のこころを溶きほぐずことができるのだろうか、と。たとえ一日でも許すことができたら、安らかなこころになれるのに、なんとか静かに自分自身と向き合える時間をもってもらいたい、と。
いざ、もし、子供の環境が変わっても、いままでどおりなにも変わらないことがわかれば、頑ななこころも少しは癒えるかもしれない。あるいは、それでも一緒に暮らしてもらえないことをうらみ続けるかもしれない。いずれ、老親の不自由が募ってきたら、近くに部屋を借りてあげようと思っている。許せる範囲で、なるたけのことはしてあげようと思っている。でも、そんなことは別に問題ではないし、ちっとも苦じゃない。確かに身体の負担は増えるだろうけれど。それでも、労働やお金で済むことは大事ではないと思っている。要はこころが納得できるかどうかのように思う。ひとの執念というものは、やはり簡単になんとかできるものではなく、そこを無視して、形だけを焦っても、たぶんうまくいかないだろう。だから、氷が融ける春を待つように、いつか必ず来るであろう、根気よく時をまつしかない、そんな気がしている。
なので、恥を承知で告白すれば、母のその怨念にも似た、心の塊が融けない限り、わたしが一歩踏み出すことを許されることはないのではないだろうかと、そんな具合に感じたこともある。もちろん、いつか、わたしの夢が叶う日がくれば、どんなにいいだろうと、涙が溢れるほどに切望してやまないし、少々のことで気持ちが変わるなんてことはありえないけれど、それでも、焦ってごり押しをして事を進めては、せっかくのこれまでの我慢が台無しになっては意味がないとわかっている。自分でも、どうしてこんなに冷静でいられるのか。わからない。ほんとうは、なにもかも投げ出して、夢中で走り出すことができたらどんなにいいだろう、ともふと思うことも。確かにある。おんなのいちばんの願い。それは。大好きなひとの子供を産みたい。同じ時間や空間を共有したい。一緒に時を過ごしたい。そう願うのが自然なのだと信じている。夢をあきらめて、母と暮らせば、いっときの母の悩みは軽減するかもしれない。そうすることでこれ以上の後悔や、懺悔を増やさずに済むのかもしれない。でも、言葉の暴力が続くと思うと、どうしても、できない。いまここで、目の前の楽に逃げて母の甘えを許しても、もっと重大な後悔を残すだけと思うこころのほうがどうしても勝ってしまう。―――恥ずかしいけれど、これがいまのありのままの心情。