だめである。現実はときにあまりにも残酷である。突然に、もう会えないと宣告される。やるせなさといたたまれなさ。胸が苦しくて痛い。たまらない、というのはこのことだろう。せめて、どこかで無事とわかれば、あるいは本人の望みなのだとわかれば、救われる。自分のことなら、自分が辛抱して済むことなら。いい。それでも、せめてひとめ覚悟できる時間が欲しかった。長く一緒にいたからこそ、さいごまでどんなになっても一緒にいたかった。長生きだからこそ、送るがわも送られるがわもそれとわかる時間の共有がたいせつなのだ。そうおもうのは、残されたもののエゴなのだろうか。本人が綺麗な消えかたを望むのなら、それを受け入れ、その哀しさに耐えるのが愛なのだろうか。わからない。生きているものは皆死ぬ。だから死ぬことは不幸ではない。ただ、どうかして悔いを少しでも慰められるかたちが欲しいと願う。あの震災をおもいだした。戦争をおもった。当事者でないと決してわからないいたみをおもった。簡単には論じられないと。

雪山を、親知らず子知らず並の海岸を、歩きながら、あたまを去来したのは、フランダースのラストシーンと、あとは阿寒に果つ、だろうか。必死で南極物語を思おうとしたけど。しまいには揺れる竹林の笹や、野外音楽堂のベンチまでが姿に見えた。どうして、寄りに寄って一年で一番の雪の日なのか。本人はいつもみたいにすぐ戻るつもりだったろう。帰るに帰れないことになったのか?本人にとって、あるいは主人にとって、残酷だかこれでよかったということなのか。こんなにつらいことのあとには、それでもいいことがあるのか?そんなどうしょうもないことを考えている自分が、ひどく冷酷に思えて、さらにこころを塞いでいる。

何を大袈裟に、と叱られるかもしれないが、まるで離れて暮らす子をなくしたみたいだ。何を思い出しても、涙がとまらない。考えられる、すべての可能性のそれぞれの管轄署には届けを出した。どこを探しても、すぐ近くに居たのではないか、あともう少しのところにいるのではないのか。そう思ってしまう。でも、ふと思う。短気は損気だったよなぁ~。と。でも、たいせつなひとにはぜったいこんなおもいをしてほしくない。そういうのは、単なる奢りなのだろうか。知らせがほしい。