映画『ユウ・ガット・メール』のなかに、「ちょうど新学期だから、もし名前と住所がわかれば、鉛筆の花束なんかを贈りたいのになぁ~」と、主人公がメールの中で言っている。とりわけ、贔屓にしているからそう思うのかもしれないが、そのセンス溢れた台詞や、特にメールの文面は、是非、原作本をじっくり味わいたいと思えるほどに秀逸で、なんどでも声を出して読んでみたいほど。そんな、粋でおしゃれな文が送れたらなぁと、いつもみるたびに半分、嘆息をもらしながら、眺めている。どうも、新しいもの好きとは対極にいるにんげんのようで、気に入ったものを、なんどでもなんどでもみていたい派である。
なにかを、あるいはだれかを好きになるというのは、考えると不思議なものだが、元来が考えてするものではないから、恐らく、考えてもしかたのことなのだろう。たとえば、ひとくちに、趣味といっても、これこれを趣味にしようと思ってするものは、半ば仕事の延長のようなもので、ほんとうのいみでは趣味ではないように思う。好きだから、自然にそれがしたいと思う、多少の無理や努力を重ねても挑戦したいと思う、ほんとうに好きなもの、好きなこととはそういうことなんだろうな、とおもう。きっと、こころのずっと深い部分で、何かが共鳴するのだろうか。縁でもあるだろうし、それ以上のなにかがあるようにも思う。だから、ほんとうに好きなものは、理屈ではないのだと、つくづくおもう。そして、きっとそれでいいのだ、とも。
たとえば、ひとを愛することを学ぶということは――/自分のことも大事にしないといけないということで/そしてそれ以上に相手の無事をいつも気にかけているということで/時間の有限に気づいて愕然とするということで/生がいつかは終わることを知るということで/そのときにこころ静かに受け容れる準備と覚悟をするということで/どんなときも相手を許し受け容れるということで/気がつくと相手にふさわしい人間になりたいと強く願うようになるということで/なるたけ余分な欲は持たないように自分に厳しくしようとおもうことで/こころとからだのどちらをも大事にするのと同じに、優しさと厳しさのメリハリの大切さを教わることで/こころを綺麗にすることの大事さを学ぶことで/そして、潮が満ちるように、月が満ちるように、時が少しずつ満ちて熟成されていくのを感じるということで/恐らく、人生の大半がそれらを学ぶためにあるのかもしれない。と、思ったりしているわけです。
たとえば、クラブは敢えて13本しか入れてなくて(3Iを入れて4を抜くとか、4Iからなら5を抜くとか…つまりは粋な潔さで)、スタート時間には遅れないけど、練習はしない、無論、パターも、でもさりげなくほかの人の転がしてるボールでグリーンの速さは素早くチェックしていて(でも、実は柔軟体操なんかは、ロッカーかどこかでちゃんと済ませていて)、気づくといつの間にやら、ボールとティーはちゃんと手にしていて、順番が来たら、さくっとさらっとナイスショットしちゃう、なんてのがかっこいいと思うわけです。ほんのたとえばの話ですが。そして、ゴルフ上達の秘訣がもしあるとするなら、それは正しいグリップと姿勢(スタンス)のみ。(わたしの場合幸か不幸かゴルフを辞めてからそのセオリーを学んだのですが。。)もし、ほかにあるとするならば、その日のを含めて自分の状態を、いまの自分ができることを弁えるということと、その中で、できうる最善の道をきちんと選び決断するということ。あとは、どんな結果も受け容れるということ。だろうか。なかでも、決断するということができるかどうかが最大のことだと思う。それは、覚悟と責任の第一歩だから。(トラブルショットで、連続する番手を3本も4本も持っていくのは、ただ決断から逃げているに過ぎない…つまり、とてもかっこわるいことで)。そこからほんとうのゴルフがはじまる気もする。そしたら、ゴルフだけのことではないことに気づいて、ゴルフの存在の有り難さに改めて感謝したくなるのです。