旅が好きなひとは、あるいは、旅生活が苦にならないひとは、きっと、簡素が好きなのかもしれない。そして、簡素であればあるほど、こころがやすまることを知っているのだと思う。旅馴れるということは、いろんな意味を持つ。切符ひとつ見せるときにも、さらっと自然にスマートにできるとか…、もちろん、慌てることもあってもいいけど、何事においても、常に考えて行動する習慣がつくのだ。それでいて、危険を予測できないほどに気が抜けているわけでもなく、でも、非日常空間に手足を伸ばしてゆったりできる勇敢さ(怠慢さ?)も大事な必需品になるとか。まあ、すべてにおいて勉強になるわけです。ゴルフも無論ですが。簡素にできるほどに、こころが豊かになれるような気もする。目に見えないものを想ったり、大事にしたりできる残された時間と空間がひろがるから。
「ときに何もかも忘れて夢を見ることは、子供よりも大人に必要だ。」(『ひとびとのかたち』より)。ときに、塩野さんの爽快でかつ歯切れが良すぎるぐらいのフレーズは、読むこちらのこころに風を通してくれるようで、スッと(ときにシャキッと背筋を伸ばされるのだが)して気持ちがいい。(ほかにも、たとえば、「イイ女とスゴイ女はなかなか一致しないが、彼女にかぎって完全に一致する~」(ちなみに彼女というのは、マレーネ・ディートリッヒというひとだそうで)とか、「謙遜は、芸術家にとっては美徳ではない」とか。すごいことを、余りにさらりと言ってのけられるところに、天晴れな清々しさを感じる)。ここだけの話(と、全世界に公開しながら言うのもなんですが、)、いつか、もっともっと偉そうなことを言ってもいいかなと思える歳になったならば、女史に倣って、いい男とは、だめな男とは、なんてなことを書いてみてもいいかなぁ。(ほんとは、沈黙は金ですが。。。)そんな気もする。最近の若い女性作家の小説には、どうして(登場人物に)いい男が少ないのだろうか。ちょっと気になる。いい男は、3万歩あるいたって、そうそういないものだけど、だめな男は、3歩あるけばその後姿でわかっちゃうんだよ~かなしいねぇ~、ってのは、どこかのベテランキャディさんが言っていたとか、いないとか…。
ともあれ。風のように人生ぼちぼちと自然体でやっていくのがいかに難しいか、なのだろうか。このごろは、歳をとるのも簡単ではないらしい。制度の枠でそのうちちっそくしなきゃいいのだが、とさえおもうこともある。平均寿命だけでは飽き足らず、年齢別の平均余命なるものまであるという。実体のない数字に踊らされるのか。ほとほと平均の好きな国民である。(どうしてあんなにパーに拘るのか。パーなんてバーディの取り損ないでしょうが。渋く耐えたのなら、ボギーだろうがダボだろうが、OKパーよりずっとずっと価値があるでしょうが。と、いいたい。)あらゆることは、氷山の一角であり、だから必要なのは喜びすぎず、悲しみすぎず、それでいて残りの9割の全体像にいかに想像力を働かせて、それでも、目の前の1割のことにどれだけ真摯に(紳士に?)向き合えるか、なのだろうと思うのに。あれだけ、書店に「武士道」なる書物が並んでも、結局、お金の多寡を軸にするスタンスにはなんら変わりなく。最近のニュースなんて、まるで、給食の残ったプリンを誰が食べるかで、いい子ちゃんぶりっ子さんと、花よりだんごさんたちが、ずるいずるいと、言い合いをしているだけに過ぎない気がして。ちょっと空しくさえある。(あれれ、ひとりで勝手に熱くなって、思わぬ方向に脱線してしまったではないか。ほんとは、美しい漢詩を紹介するつもりだったのに。。。それからゆうべみた夢のはなしと。。。)