本のことについて書こうと思う。女性作家さんだっと思うが、恐らくスーパーよりたくさん出かける場所は本屋さんと、書かれていて妙に素直にうなずけた。無論、育ち盛りの子どもがいたら、そうもいくまいが、明日のパンを買い忘れることはあっても、本屋に寄るのを忘れることはまずない。勝手に、ブックサーフィンを名づけているが、その日その時、その場所で自然に目に飛び込んできた本を手にする。気ままに、いろいろなところをつまみ読みする。それが愉しい。郊外の駅前の小さな本屋さんとか、飲み屋さんが多い街の一角にあって中はとても洗練されたロフト調のお店とか、まず、本が多すぎず、でも、古典から新刊までをカバーしている、それでいて、駅ビルの中のような、明らかに本を探すために来ているのではないフトドキな輩たちがいない、というのが大切になる。(大きなお店は確かに品揃えはいいが、それだけに一つの棚の前に、背中の目を休ませてのんびりすることが適わない。)ともあれ、休みの日、散歩のついでや、あるいは用事を作って街にでたついでにちょいと足を伸ばして…、なんていうのがささやかなたのしみになったりする。
愛犬との交流を軸に、音楽のことについて書かれたエッセイのなかで、そのひとが、「音楽(を聴く)には人生がいるのね」というひとことを書かれていて。とても感心した。恐らく、本を読むということにもあてはまるに違いないと思ったから。少しずつ読める本が増えていくのもきっとそうだからだろう。しみこむ場所が増えるというか、味わえる感覚が豊かになるというか、つまりは、消化できる力やスペースのひろさが違ってくるからなのだろう。なんとなく、目に付いて手にとって買った本のなかで、著者がまた別の著者を褒めていたり、作品を讃えていたりすると、そういうかたちでさらに出会いが生まれたりもする。別に、いますぐなにをどうするために読むのではないし(そういう本はほんとは読むところがないんだ、と誰かが酷評していたっけ)。ともあれ、これも、間違いなく出会いであり、縁であり、途中で読むのをやめてしまうのもあれば、時を経てその価値に初めて気づくときもあり、さらに同じ著者の本をもっともっと読みたくなる場合だってある。智恵というと、すぐに役立つとか、そういう響きを得てしまうかもしれぬが、意思を伝え、連携をとるための道具としての言葉ではない、ことばの世界が広がるんだと思う。うまくいえないけれど、ひとの感性とか感覚とか、考えとかそういう空気みたいに目にはみえない多くのものを吸収したり、それについて考えたりするきっかけになったり、あるいは、読むということそのものが、自分の感覚で考えるということなのだろう、という気もする。
確か塩野七生さんだったと思うが、かつて憬れたひとに街でばったり再会して、お茶を飲んだが、もはや“ことば”を持たないそのひとと一緒にいるのは、数時間で充分であった、と、女史一流の辛口を書かれていて。ちょっと、可笑しかった。でも、たぶん、当たっているのだろう。たしかに、話しているひとはたくさんいても、互いにことばをちゃんと話し、見えないボールの交感ができるってそうたくさんあることではないのだろう。かつて、毎週のように私鉄路線のほとんど始発から終着までを乗るのが習慣だったころ、最初はその長さにたじろいだものだが、次第に、貴重な読書の空間になっていたのだと、あとで気づいた。(そのときに、分野も著者も飛躍的にたくさん知ることができたように思う。)ときには、ほかにはすることがなく、自然にそうできる時間と空間というのは、とても有難いものである。いまは、あえて自室に読書のための椅子を置いていないせいもあって、目下のささいな悩みは、のんびり気ままに読める空間がないことだろうか。夕方ふらりと気ままに立ち寄れる、小さな喫茶店でもあるといいのだが。。。ところで。まったく活字を読まないひとというのは、一生のあいだ、いったいなにをして過ごしているのだろうかと、皮肉でも嫌味でもなく、純粋に真剣に不思議に思えて仕方がない。いや、読まない人にとってみれば、まだ読んでない本を山と積んでもまた、本屋にでかける風来坊の、生き方自体が信じられないなんて思うものなのでしょうかねぇ~。