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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(冬眠中)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・でした。(すみません。)
なにとはなく、冴えない感じにしばし包まれていまして。なんだか、ミルクセーキにコーンスープを間違えて混ぜて口に含んでしまったような(これこそ冴えない、ひどい喩えですが)、まあ、早いはなしが、こころの軽い風邪でしょうか。もっとも、いつものおっちょこちょいで、古傷に感じた違和感にまたしても大袈裟に反応してしまったのが、もしなかったとしても、恐らく、いつも、この寒の季節になると決まって、空模様と同様のなんともいいようのない小さな憂鬱を抱えているので、まあ、いつもどおりといえば、いつもどおりだったわけなのですが。ともあれ、一人勝手な勘違いは、文字通りの勘違いでなんともないことがわかり、そして、ようやく冬休みも終わり、普段の時間が戻りつつあるきょうこのごろなので、あります。年末、観ているこちらまでが緊張してしまいそうな声で、「言葉を超えた愛もあるのさ~」と、懐かしいメロディを唄っていたオジサンがとても印象的だった。そういえば。でも、確かに、ことばのやりとりには違いないのだが、いつしか、それを超えたつながりは、温かいきもちはことばを超えて(いや、むしろ無言の方がずっと雄弁なのではないだろうかとさえ、思えるほど)、伝わるものであるんだなぁ~としみじみ思う。(もっとも、わたしの場合、これぐらいで、やっとふつうの羞恥心が芽生えたというか、おしゃべりが過ぎなくてちょうどいい状態、になれたのかもしれぬ、ん???、と、あたまの隅っこではそう思わぬでもないのだけれど。。。)
分厚い雲から、ようやくうっすらと光がさしこんできたような、なんとなくだが、そんな気がしている。トンネルは、曲がりくねったトンネルは、出口の明かりが見える直前が、もっとも暗くなるものだ、と、どこかで読んだ気がする(ん?いや、読んだのではなく、そう勝手に思っていただけかもしれませぬが。)。ともあれ、時間というもの、時の言うものの、ありがたさやもどかしさ、つれなさやうれしさ、そしてそこには、厚みのようなものさえある気もして、知らず知らずのあいだに、ことばではとてもいいようのないものまで、たくさんのことを教えられたし、いまも教わっている。そんな気がする。時に。これは、蛇足だけれど。小説を読んでいて、短編を読んでいて、あるいは、随筆でもいいのだけど、自然と、それを書いている人の姿が浮かぶとき(もの)と、まったく書かれたものということさえ忘れるほどにその情景にすっかり包まれているときと、そのどちらでもないときとが、あることに気がついた。無論、作者との相性やら、そのときどきの自分のこころ模様にも影響されるのかもしれないけれど。ともあれ、面白いことである。どちらかというと、短編が好きで、よく読む(たいてい、いくつかを同時に読みかけていて、こと本となると、抑制が利かぬというか、我ながら、ほんに行儀が悪くて仕様がないと、思っているのだが。。。)。たとえば、『センセイの鞄』。いったいどうしたら、こんな綺麗な文章が紡げるのだろうか。凄すぎて舌が渦巻きになってしまいそうだ。