「ただしきみちをふみゆくならば たとえりがひになることありとも まつはみどりにかわらぬいろこく ゆくてはめでたきたからのやまやま」

遅ればせながら、初詣でに出かけた。家のちかくに、ちょっとばかし名の知られたお寺さんがあって、(なのに、これまで2度しか行ったことがないのだが。とほほ。。ともあれ)、こんな時間じゃごりやくもないかなぁ~と、やっと少し延びかけた日の高さをたよりに、それでもまだ大勢の参拝客のいる、夕暮れ間近の参道を通っていった。いつも、おもうのは、ひとはあの手を合わせたときに、きちんと「~になりますように」とか、「~でありますように」なんて、みんなそんなきちんとした明文を心中で唱えているのだろうか、ということ。たしかに、こどものころは、「りくじょうたいかいでゆうしょうできますように」なんて、ことがすらすらといえたものだが、どうにもできない。なにかきちんと言わなくちゃっと、少しは思うのだが、こころがすっかりブランクになってしまう。いや、いっそこれでいいんじゃない?って、もうひとつの思いもちらほらして、余計に言葉に詰まる。でも、流石に、目を閉じ手を合わせているあいだずっと、無言もなんだから、「みなが無事で~~」と、ほとんど愚にもつかぬことだけ思って、目を開けてしまう。これって、わたしだけ?なんだろうか。そりゃぁあね、大声で叫びたいよな祈りにもにた願いはありますよ。(誰だってそうだろう。)でも、そんなこと偉そうに言葉にしたら、罰があたりそうな気がしてね。これも、可笑しなことなのかしらん。おっと、前置きがとんでもなく長くなってしまいました。ともあれ、一事が万事こんな具合だから、まどろっこしいったらありゃしないのですが。。。ともあれ。で、気恥ずかしさをぐっとこらえて、小さな子どもたちの横に並んで、あの六角形の木の筒を、おじさんの「よ~くふってねぇ」の声に素直にそうしてから、でてきた番号のおみくじにあったことばである。思わず、目じりが動いてしまった。だれか、木の陰から見ていたのか知らん。とおもうほど。で。思ったのだが。願いとは、ただ思っているだけではだめなのかもしれない。どっちでもいいよ。どっちでも傷ついたりしないように、精一杯冷静を努めているようでは、願っていることにはならないのではないか。本気で願うのなら、たとえ別に声にはださずとも、もっとしっかり願わねばいけないのではないか。なあんて、ちょっぴりおもって、初心に頬を軽く叩かれたようなおもいのした、年初の夕暮れなのでありました。


たぶん、願うというこは、なにかを信じて願い続けるということは、ほんとうは、とてもタフなことなのかもしれない。ときおり、宵闇とともに忍び込んでくる不安の囁きに揺さぶられることだってあるし。のほほ~ん、はほんとはとっても修行のいることのような気もするけれど。でも、同時に、これいじょうの充実があるかしらん、とも思うわけで。ひとはなぜ生きるのか(どうしてゴルフをするのかでもいいのだけれど。ともあれ、生きるのがしんどいとかそういうあらぬ深刻な意味では決してないので。念のため)と、ときおり、思うことがある。あるひとが、ひとはひとりで生まれてひとりで死ぬ。そのことをきちんとわかったうえで、ひとはひとりでは生きられないということ。それらに気づいて生きていけるようになってはじめてひとは、大人になるのではないだろうか(わたしの理解のなかでの意訳なので、少し字句が違うかもしれません)。とおっしゃっている。ときどき、こみあげる想いに勝手に溢れてくる涙に、自分でも戸惑うこともあるけれど、それとて、うれしいこととといえばそうであるし。ともあれ。たまには、こんな風に、全然まとまりのつかぬ文章になってしまうこともあるわけで。。。(すみません。お許しあれ。)そう、願えるということは、とてもうれしいことなんです。(さいしょの一行に言いたいことのすべてが集約されてしまっていると、もうそれ以上のことは何も書けなくなってしまうものですね。)っと、いうことで、きょうはひとまずこのへんで。。。