あるところで、電波時計のはなしになった。「これは、いったいだれが決めているのやぞなもし?」と。そもそものきっかけは、どこかの阿呆なオバハン(わたしのことであるが。。)が、「ちょっとこれ、道が混んで、時間に遅れそうなときに、ぴぴぴ、と遠隔操作で遅らせたりできんもんかねぇ」と、たわごとをいったのが始まりなのだが。宇宙戦艦ヤマトじゃなくて、スペースシャトルに乗って人工衛星の時間をちょちょいっと変えればいい?、うん?、でも時差があるから、みんな一緒な時間じゃないよね、じゃあ、この国の電波は誰が決めとるねん?気象庁か?いや、あの御歳50におなりになられた電波塔か?と、なかば本気で真剣に考えていたら、「ちょっと、なんか変なものでも食べたんとちゃう?」と、真面目に心配されてしまった。う~ん。ところで、ほんとに電波時計って、絶対に狂わんの?だろうか。それって、あんまりおもろうないねぇ。たまには、ちょっとくしゃみやしゃっくりなんかもしてもらったほうが、ずっと人間らしくて味があるのに。。???.
宝くじを買ったら、黄色の袋に入れて、西の方角に置いておくと!?当たるのだそうである。そんなもんで、当たってもらったら、そこらじゅうに億万長者がわんさと溢れて、たいへんなことになろうものだが。。。まあ、そんな心配はあるまい。お金で解決する問題など所詮、たいしたことではなかったのだろう、と思える。お金さえあれば、きっと幸せになれる、そもそもそこにふか~い、闇が隠れているのではないかしらん。ひとごとなので、介入するつもりはないけれど。もし、本当に自分に投資するのだったら身銭を切って、あるいは借金をしてでもそうすべきであるのだろうし、もとより、タナボタで降ってきたものがどうして身につくことがあろうか。当たるとすれば、それは罰であるやもしれぬ。失ってはじめてわかる、それまで気づかなかっただけでちゃんとすぐそばにあった、お金では到底変えない大切なもの。それに気づくためのものなのかもしれないなぁ。ひとには、それぞれ持ってうまれた運や徳があって、一朝一夕で何かが変わるほどたやすいものではないのだろう。それは、ゴルフのスイングを見てもわかる。そのひとの、欲や恥(あるいは気品)がすべて凝縮されている怖さを見れば…。なんてね。とはいってはみたものの、そりゃぁあ、小さなお年玉ぐらいなら、罰もあたらないだろうから、あればやっぱり嬉しいのかなぁ。う~ん。
先日、書きそびれたが、実は昨年の今ごろ、張り切って十年日記なるものを購入した。日々の、印象に残ったフレーズや著作、詩のことばなんかを書きとめておこうと思って。見事に、3日坊主ならぬ、3ヶ月坊主になってしまった。まぁ、4月にいささかの動揺を伴なう“発見”があったせい、というのは、ほとんど言い訳に過ぎず…。我ながら恥ずかしい。少し、欲張りすぎたのかなと思う。こうして日々の機微をつづりながら、なお余韻に浸るのまで一緒にやっちゃおうなんて、いささか貪欲がすぎたのだろう。そのうち、ゆっくり書き留められるゆとりができたら、再開できるだろう。しぜんに続けられるものとそうでないものは、やはりそれぞれに理由があり、そうすることが強制であったり、見栄や義務感だけであったりしてはいけないのだろう。できることは、いずれしぜんにできるときがくる、と。それで、思い出したが、先日観た『51年目の再会』には、感動した。ひとは、それほどまでにひとを信じ、待つことができるものなのだ、と。簡単にことばで評しては申し訳ないほどの、驚きの真実だった。それにしても、それこそ気の遠くなるような年月である。凄い。そして、ひとつ違えば父の運命だったかもしれない抑留生活に、思いを馳せ、なんともいいようのない神妙に包まれていた、相変わらず大袈裟なひやくの好きなオバサンなのであった。さて。今年は決して不幸だったわけでなく、単にいろいろな意味でたくさん勉強する機会に恵まれただけ(ちょっとやせ我慢しています)であり。だから、来年こそは、きっといい年になるだろう。たぶん…ね。