見開き1ページに、1週間がちょうどおさまる日記帳を使っているので、あと1ページを残すばかりとなった。早いものである。毎度のことながら。今年は、空白の(=非日常の)数週間と、数ヶ月が初夏から初秋にかけてあったのせいか、真夏の記憶がすっかり抜け落ちたかのような不思議な感覚で年の瀬を迎えた。何はともあれ、無事に健康で迎えられたことが何より。ひとつ加わる年輪に少しは味がくわえられたであろうか。はてさて…。ところで。日記帳の話に戻る。かれこれ30年目になるのだが、一昨年から使い始めたM社のものが殊のほか気に入っている。表紙が黒の一種類なのが女の子としてはいささか、残念ではあるのだが、鉛筆の芯が紙に吸着するときのあの柔らかい感触といい、一日分の多すぎず少なすぎない行数といい、忙しすぎず暇すぎないこの年頃!?には、ぴったりである。もっとも、元来は予定帳であるらしく、土日のスペースがいささか少ないのが玉に瑕だけど、これとて、こちらにも手抜き出来る休息日と思えば、決して悪くなく…。ともあれ、いいペンシルで、いい紙に字を書くことの快適を、改めて教えてくれた貴重な一冊であった。さらには、月の暦がわかるのもさらに嬉しく。おまけに来年のは、関税の要らない空港で見つけられて、さらにもすこし嬉しかった。


装飾品より、道具というものに何倍も惹かれる性質らしく、台所用品ならあのW社の専門店なんてめちゃめちゃわくわくするし、文房具屋さんにも目がない。いつかは、あの星のマークの万年筆を手にしてみたいものだと、夢見ているが今はまだまだ分不相応で、とても手が出ぬ。ともあれ、ひとの手に馴染むために作り出されたもの、作ったひとの手のぬくもりさえ感じられるような品々(たとえば、木の机とか…)に、魅力を感じてしまう。文具店のショーケースに収まったペンたちなんて、わたしにはさしずめ珠玉の宝石と変わらない。ときどき、覗いては、流石に涎までは垂らしてないけど、かなり憧憬の瞳をしているに違いない!?。と、前置きはこのくらいで。手帖は薄くてシンプルが一番、と思っている。できれば見開き1ページに1ヶ月が収まっているのがいい。時計は針でないと…というのと同じ理由かも知れぬ。カレンダー形式のページがないと、月日がバラバラに圧縮されたような息苦しさを覚えていけない。気のせいか?。ともあれ。立体的にイメージできるほうがいい。別に、弁護士さんのように一日に何件も法廷を抱えているわけでなし、分厚いシステム帖なるものは必要ないし。だから、できれば、薄くて、件のM社や、あるいはRollBahnのような紙の質感で、開きやすくリング式で、装丁は紙や透明ビニールでないものを…。と、願うのだが、帯になんとかで、哀しいかなそれらすべてを満たすものは、ないのですねぇ。まだ。結局、薄さと中身を重視して、ここ数年は、国産T社の安価なものを愛用している。


ちなみに、表題は、いえすたでぃず、と読みます。念のため。ときに。生きていれば大変なことも決して少なくなく。海を渡る風のように、いつも自然のまんなかで、なんの衒いも驕りも力みもなく、ひらりひらりとどんな難題もさらりとかわせる身軽さと柔軟さ、そしてしなやかさを持ち合わせていられたら、どんなにいいでしょうにと思うけれど…。いろんな悲しい事件や事実を耳にするたび、ひとはどうしていつになっても愚かを繰返すのだろうとため息がでる。でもその一方で、それがひとなのだろうなぁ~と、諦観にも似た心情がないでもなく…。いつまでいっても、恐らく、旅の途中で、発展途上で、坂道の途上、なのだろうなぁ。と、それが、とてもわくわく思えて仕方のないときもあれば、それらが、余りに果てしなく気が遠くなるほど長すぎるように思えるときもあるのが、ひとなのでしょう。確か、白洲正子さんが、随筆『夕顔』の中で、そんなことに、もし若い内に気がついてしまったひとは先が思い遣られます、ということを書かれていたのがしきりに思い出された。たいしたことないとはいえ、病気も一応経験したからであろうか、あるいは、全く別世界のひととはいえ、同世代の訃報を耳にしたからだろうか、生きるということについて、少ししんみり考える機会が増えた気がする。無論、ちゃんとしたスタンスで、だが。これが、少し大人になるということなのだろうか。ならば、できれば、もすこし、子どもみたいに、人のことは我関せず、なんでも我先にと夢だけ追いかけていられたほうが楽だったのかしらねぇ。ふぅ~。