電車を降りて、最初に思わず手にしたそれを一目読んで。こみ上げてくるものを抑えられなくなった。想いが、願いが、いつかきっと叶う日がくると、信じられる嬉しさとせつなさと、いとおしさがいっぺんに胸を包んだ気がして…。家族と暮らしたい。そんなありふれた願いが、こんなにも大きく、こんなにもせつなく、こんなにもいとおしく、かけがえのないたいせつな想いになるなんて…。数年前までは、思いもよらなかった。それが、もし叶うなら、ほかになにもいらない、とさえ思えるなんて…。ひょっとしたら…、やっぱり…、もしや…、ふとしたときにこころに陰を落とす弱音のむしも、あるいは、抑えようもなく込み上げてくる想いのたけも、どちらもありのままの姿であり、それでいいんだよと、そんな声が聞こえた気がした。


「変わったね」「英語ではなんていえばいいのだろう」「やっと君が君自身になれたように見えるよ」「ずっと見えない鎧を着ていたみたいだったけど、いまは“いつもわたしはここにいるよ”って、地に足がついてるというか、心の中でずっと眠っていた本当の自然体に素直になれたっていうか…。」「それって、わたしがわたしをついに見つけたってこと?」「そう、そういうこと」。ひさびさにあった旧知の友に言われて、頭をハンマーで殴られたようだというと、ちょっと言いすぎだけど、ともあれ、自分の中で少しずつ育てていた(らしい)ものが、そんなにわかるものなのかと、改めてことばにされて、衝撃を受けた。そんな感じだったろうか。やっと、大人になれたんだよ。やっと、角がとれて、殻を破れたんだよ、どんな器にも入れる水になれたんだよ、友がそこまで思ったかどうかは定かではないが、そういわれた気がして、愕然とした。でも、嬉しかった。さように言ってくれた友自身も、ついに、念願のパパになれて、ものすごく優しい顔になっていた。母でもないのに、それを知ってとてもホッとした自分が自分で一寸不思議だったけど。何年かに一度しか会わなくても、そんな話のできる友のあることをほんとうに有難いと思った。「次は、一緒に来れるといいね」と、友。


朝6時。薄暗い空のたかくに薄い雲におぼろに輝く満月。ほかでは観られない幻想的な風景。母なる川の傍の、小さな小さな谷に広がる家々の明かりが、真っ白な雪に覆われ、少しずつ夜が明けていく。神秘的。ことばなんていらない。なんて、静かで、なんて、綺麗で、なんて無垢なんだろう。音のない通りに立って、Valleyの風景を眺めていると、世間の喧騒なんてどれも取るに足りないもの、こんな景色に出逢えただけで、ただそれだけで、生きてるだけで素晴らしいって、こころから思える気がして。涙がこぼれそうになった。いつか、見せたいとも思った。か、な、り、寒いのだけど…。ひとは、生まれ育った風土に似た風景にこころが沁みるんだと、あるひとが書かれていたけど、そのせいもあるのだろうか。常夏の浜辺のサンセットもきっと素晴らしいとは思うが、こころが沁みるのはきっと、この雪に覆われた木々と野原の静寂の美しさなんだろうな。そうか、この景色に出逢うために、きっとここまでやってきたんだ。それだけでも来た甲斐があった。そんな風に思えて胸が熱くなる旅もあるんです。「きみがぼくをかえてくれた」小田さんの唄に確かこんなフレーズがあったけど、きっと、その『きみ』のほうも『ぼく』に多くを変えられたんじゃないだろうか。そんな気がして、胸が沁みる。