ときどき、どうしようもなく、ダークな気分に塞がれるときがある。半年に一度くらいだけど。言うに言えない切なさだろうか。正統派不良!?もなかなか楽ではないようだ。ひとのこころとは不思議なもので、こうして書き始めると風穴が開いたように一気に、楽になる。ぜんぜん問題のないことに気をとられていただけのようにも思える。しかし、そいうときは、なぜかもっと深い部分で不満に思っている事柄がにょきっと現れ、いつの間にかすり替わり、最初のきっかけはどこかにいってしまうからのようだ。してみると、老親の心の闇も、反面教師のいい教材ということなのだろうか。とはいえ、ときどき、そうしてこちらの心にまで暗い闇が拡がりそうになるから怖い。ほんに、おんなは怖い生き物のようだ。決して、笑い事ではないあたりが、やっぱり切ない。ちなみに、ある方がその随筆のなかで、この世に、切なくない仕事などないか~と書いておられた。少し、救われた。


ひとには(おとこにはだったような気もするが)、定住する(できる)ものとそうでないものがあると、あるところに。どちらにも、それなりの苦労と覚悟と犠牲は伴なうもので、一概に、あるいは簡単にどちらがどうなどとは、ましておんなのわたしが口に出来ることでもあるまいが、どうあれ、やはり大切なのは気概ではないかと思う。気骨ともいうのだろうか。社会にあって、通すべきところと折れるところをうまく完璧にできるひとなどないかもしれぬが、そこらあたりが、いちばん、難しく、だから、ひとのこころを支える杖にも、折ってしまう斧にもなる、まさに諸刃の剣なのだろうかとも、ふと思う。いずれにせよ、不器用な者は、大概苦労を多く背負うようになっているらしい。ところで、面白いのは、アリさんは「冬に備えて働きなさいよ」とキリギリスに言うけれど、キリギリスは、「いつ死ぬかわからないのに、後回しばかりでほんとうにいいの?」とは、たとえ思ったとしても口にはしないところ。いつも切なさと哀しさを少し多めにみつめながら、いるからだろうか。


「深く愛し愛されるように努力する」「他人の評判には動揺しない」「失うことを受け入れる」「お金に惑わされない」「死を準備する」。。。「引退しない人生」だったか、そんな名前の本の紹介文にあった。してみると、これは老いたひとに向けたことば?と、思った。そんなのいつでも当たり前じゃん、と思った30代は少しオカシイのか?やはり、ある方が、最近は大人の男も女も驚くほど少なくなったと嘆いておられたが、件のもわざわざ本になるというあたりが、そのあかしなのかしらん。若々しいのと、若く見えるのは違う。内面の伴なわない若さは幼稚さと紙一重であるし、若者が、あああんな風に自分も齢を重ねたいと思える先輩が少なくなってしまうのは実に哀しいことのように思う。いつの時代も「昔はよかった」があったにせよ、アナログの後退は、いつしか人間の深みまでも減らしていないのだろうか。たとえば、煙草がなくなればいいなどと愚かな意見をしているひとを見てもそう思う。そうまでして中身の薄い人生(失礼!)を延ばしていったいなにが自慢なのだろうかと。結局、ひとは自分はいいことをしていると思いたいだけでは?と思いたくもなる。そういう考えの先にある危険の最たるが戦争なのだろうと思う。少し横道に逸れた上、ひとり勝手に熱くなってしまったが、少なくともわたしは煙草を吸わないひとで、恰好いいと思ったひとは(余り)ないとおもうひとりである。吸えばそれだけで恰好いいわけでももちろんないが。かくいうわたしは、でもおんなは吸うべからず、ひじょーに恰好わるい、とひそかに信じる偏見の持ち主でもあるのだが。。。(嗚呼、こんな風につれづれなるままに、書きながら暮らせる日がくるといいのになぁ~、とは一寸だけおもう。でも、ときどきは、世間の辛い風にも当たりに行かないとスパイスの効いたことを書くのはかえってむずかしいのかしらん。。。)