「あなたに会いたい/泣きたいほど会いたい たった一度のめぐり会いといえど/奇跡を超えた出会いや人がある/一生かけても届かない恋もあるけれど/たった二分でも一生分の恋を駆け抜ける/たとえばあなたに捧げる無限の愛のように~~」『愛』という詞のはじまりの部分である。やっぱりひとは気持で生きていると思う。どこかの見出しに結婚するならお金か人柄かなどという、馬鹿げたくだりがあったけど、そんな風に考えること自体ナンセンスだと思う。そんなひとにはしてほしくないとさえ思う。お金云々と同列に語るくらいなら、いっそ野垂れ死にしたほうがずっといい、と半ば本気で考える愚か者ゆえなのかもしれぬ。でも、願わくば、一生愚か者でいたいと思う。数々の選択の自由と引き換えに、知らず知らずに当たり前のことに気づくまでの時間を犠牲にしやすい不自由を甘受する時代なのかもしれない。同権もいいが、産む性であるおんなから愛をとったら、いったいなにが残るのだろうとも、ふと思う。ともあれ、みんながこころから想えるひとに出逢えたら、どれほど世界の見え方が劇的に変わるだろうに、と思うけど。見えないものを説明するのはとても難しい。
軽い時差ぼけ状態にある。事情があって朝が少し早くなったからなのだが、朝の格闘はひそかに壮絶を極めている。まるで泥沼の底の方から、少しずつ這い上がってくる感じ。血の流れの豊富なひとには、とても理解不能な感覚であるらしい。いちど目が覚めたら寝られないというひとがあるが、それこそ、こちらには理解不能である。夢のつづきだって見られる。次のベルまでの5分間でも熟睡している。ま、要は気合いなのだろうが、これも一種の儀式というか習慣みたいなもので、どうしても起きないといけない時間には起きてるから、名残惜しい睡魔と戯れているようなものなのかもしれない。ほんとうは、結構こころのなかの弱虫と闘いながら、自分へのアメと鞭を使い分けていたりするのだが。。あまり、ひとには理解してもらえない。なのにである。保育園の時は、枕が違うと寝られないなどと、どこかのお姫様の寝言のようなことを言って、お昼寝の時間、いつもひとりちょこんと布団の上に座っていた。あの時間のなんと長かったこと。ひとは変われば変わるものである。一度など、飛行機の離陸も着陸も知らずに眠っていたことがあった。アメリカの国内線だったと思うが。。。隣席の見知らぬ白人老婆が、呆れた顔をしていたっけ。でも、今度乗ったときはもっと窓の外の風景を眺めてみたいと思っている。
空の色も、海の色も、まいにち違う。全く同じ風景というのは二度とない。風の感じにしてもそう。雲だってそうだ。自然の作り出す色は、考えれば考えるほど凄いと思う。木にとって、自然とは何だろうかとふと思った。人や動物がもしいなくなったとしたら、それでも太陽と水とつちがあれば、彼らは生き続ける。環境の変化への種の淘汰はあるだろうけど、人に切られるためや、動物に穴を開けられるためにいるのではない。「武相荘」。なんて粋な名前の庵だろうと思ったけど。木の庵はなんて自然でいいのだろうと、思ったけど。木にしてみれば自然でもなんでもないのだろう。だから、辞めようという話ではない。ただ、ふと、だれかにとっての自然は、別のだれかにとって、自然でもなんでもなく、受け容れがたい理不尽だってこともあるんだと思った。だから、辞められるかというと、そうもいかない。想いは簡単に消せないし、消えるくらいなら、初めから想いにまでなろうはずもない。難しい。生きるとは、いくつもの困難と背中合わせに、それでも、自分はしあわせだといえる、そうおもえる、鈍感さや呑気さも必要なのかもしれない。ほんとは、それがわかっているなら鈍感でもなんでもないので、つまりはやっぱり、そうおもいきることのできる芯の強さをどれだけ持てるかということなのだろうか。でもでも、やっぱりそれでも夢が叶ったらどんなにしあわせだろうなぁ~と、口をあけて能天気に思えるいい加減さ(残酷さ?一途さ?)があるから、ひとは生きていけるのかもしれない。のほほ~んは、ほんにむずかしい。