家路に向うハンドルを握りながら、なんとなくいつもよりこころが澄んでいるような気がした。そのわけを思い巡らせるに、一枚の画が浮かんだ。寄り道した大型ショッピングセンターの一角にたまたまあった小さな画廊。画廊というのだろうか。贔屓にしているお地蔵さんのイラストに最初目が止まり、その隣にあった油絵。パリの街角らしい。決して派手な色使いではないのに、むしろ冬の街角なのに、どこかしら温かい感じが滲み出ていて、きっと書いたひとのこころだろうか、そんなことを思いながら、店員さんの視線を感じながらも、しばらく佇んでいたのだった。きっと、そのせいだと思った。コピーでは、きっとこんな感覚はなかなか生まれないのだろう。画の素養があったらどんなにいいだろうと、ちょっぴり思うけれど、でも観ることができるだけでもどんなにいいか。高価だとか、有名だとかそんなのではなくて、純粋に自分のこころに響く作品にいくつ出逢えるかが大切なんだろうな。そういえば、昨夏、ピカソの展覧会にでかけたのに、なぜかシャガールの絵のカレンダーを買ってしまったっけ。
薪を届ける澄んだ目をした少年の話を読んだ。少年の目はなぜあれほど綺麗なのだろう。忘れかけてたなにかをひとに教えてくれる気がする。それは、わたしが女であるからの贔屓目だけでもなさそうだ。哀しいかな、女の子には、そんな目はない気がする。目はこころなのだろう。保育園のころ、いつもわたしを見つけると駆け寄って抱きあげようとしてくれる男の子がいたそうだ。(その頃、わたしはとても小さい方だった。)わたしにその記憶はないのだが。あるとき担任の先生が産休となり、代わりにとっても怖い先生がやってきた。絵を描く時間、その子はとても絵が上手で、その子の描く木がとても素敵だったのでわたしも真似して書いたのだった。そしたら、あとで先生が「これはどっちが真似したの?」とわたしに聞いた。思わずその子の名前を口にしてしまった。まさか、それで先生が彼に絵の書き直しを命じるなんて思いもよらず。なのに、何も言わずに、黙って書き直しをしていた彼の姿だけは今もかすかだが、覚えている。どうして急にそんな話を思い出したのか自分でもよく分からないのだけど。これもどこか懐かしい感じのする絵を観たせいだろうか。。。
大学時の寮でも、研修生の時の寮でも、どちらも独房、いや、ちょっと狭いシングルルームの感じだったのだが、なんど、模様替えをしても、わたしの部屋はわたしの部屋だねぇ~と言われた。だれしも、それぞれ自分らしさがでるのだろうとわたしは思うのだけど。引っ越したその日に、「こりゃ、5年くらい住んでる感じやなぁ」とも言われたっけ。もっぱら大量の本(それでもほんの一部だったのだが)のせいもあるのだろうが、どうも物持ちがいいらしい。殺風景にはどうしてもできない。それでも、なにがどこにあるかはきちんと把握しておきたいから、収める場所は使いやすさを考えている。つ・も・り。。。もっとも、いつでもかたづけられる自信があるから、ときたま、表だけは散らかることがままあるのだが。。だから、ひとが手を離したそばから、かたづけてしまうような潔癖症にはとてもなれない。なかなか中庸というのは難しいもののようだ。物持ちのよさといえば、今も書斎で手紙を開封したりするのに使っているはさみは、小学校に入学したとき、さんすうセットなどと一緒に机の上に配られたもの。もう30年になるのね。そういえば、いつも聞く曲も20余年変わらず、飽きずだし。これは、性分なのですかねぇ~。(そういえば、この前自宅の蔵に入ったとき、初めて買ってもらった小さな初代のグローブが、大切に箱に入れてしまわれているのを見つけた。もちろん、自分でしたもののようだ。)