ときおり、なにかのひょうしに天使が舞い降りてくることがある。というのは、冗談だが、でも、そんな風に、あれよあれよと、いろんなことがわかるように思える(たぶん、気のせいだろうが、)流れがやってくることがある。目が覚めるというのだろうか。たとえば、嗚呼、もしかしたら、どう生きるかということはどう死ぬかとほぼ同じことなんだ、とか、まあ、そういうこと。目からウロコのように、見え方がかわっていくというのだろうか。それでも、たとえば、ゴルフでツボがわかり、「なあ~んだ、わかった。そういうことか」とすっかりわかったと思っても、また次にいろんなことがわかる(つまりは、どんなに何も知らなかったかを分かるということなのだが…)ように、きっと、そういうことの連続なんだろうなぁ~とはなんとなく思うけれど。いつだったか、その随筆の中で、白洲正子さんが、「若くしてそういうことに気づいてしまったひとは、先が思い遣られる」と、おっしゃっていたのがふと思い出された。もっとも、おっしゃっている次元のことには、まだまだ及ばないことやもしれないけれど。
たぶん、ゴルフのショットのスタイルというのは、そのひとそのものであり、なのでスイングを変えるなんていうのは、そのひとの人間を、性格を変えるというくらいのことではなかろうかとも思う。あんまり、大袈裟に言うと、これを読んだ人が怖くなって振れなくなってはいけないけれど(たぶん、大丈夫でしょうが。。)、ともあれ、いいところもそうでないところもみ~んな凝縮されているんだろうなと。くせもその一部だろう。誰だって、自分の中にも好きなところとそうでないところがあるのだから、いわんやひとのことをおや、だと思う。好きではないところがひとつもないひとなんて、多分ないだろうし、もしあったら逆に気持ち悪い。誰にでも全く同じように機嫌よく振舞えるひとを見ているようで、どこか信用できない。それでも、好きなものは好きなんだと思う。ついでに、頑張るということだが。ふと気づいた。わたしほど、自分を殺そうと思ったことのない能天気も珍しいのかもしれないと最近やっと遅蒔きながら気づいたのだけれど。それはさておき^^;。頑張るというのは、どんなときも芯の部分では自分らしさを失わないように踏ん張るって意味なんだと。だから、わたしは、頑張れと言われると素直に嬉しい。応援してもらえてるんだと、感謝したくなる。決して、自分らしさに蓋をすることが頑張ることではないのではないか。と、そんな風に、思うのは、やっぱりわたしがどこかタンサイボウなおひとよしだからなのだろうか。
グリーンをことを語ればたぶん、一晩はかかる。たとえば、ひとのラインを踏んではいけない、というのは、芝目がどうのということではない。ひとがこれから進もうとしている道を、踏みつける無礼だけはしてはいけない、というものすごく重大な礼儀の根幹を教えてくれているのだと思う。(ちょっと大袈裟かしらね。)もし、カップに入るラインをひとつの正解だとするなら、必ずしも正解はひとつとは限らないし、恐らく、何度解いても、無理数でしか解の得られないラインだってあるだろう。数学にあんなに言葉と愛と綺麗な世界があるなんて、その端緒を教えてくれた『博士の愛した数式』は、凄い傑作だと思うけど、ともあれ。そんな風に、グリーンにだって、ものすごく深くて壮大な物語が隠れている気がする。入ったか入らないかなんて、取るに足りないことかもしれない。問題は、どんな気持で臨んで、どんなボールを打ったかなんだろうと思う。すべては、賭けでもあるだろうし、だから、正解を最初からひとに聞いてそれが当たっているかいないかを質すなんて、全くナンセンスなことかもしれぬ。想像力を駆使して読むから面白いのだ。たぶん、文学と同じ。絵画と同じ。音楽と同じ。ではあるまいか。だから、信じて打たないボールは、届かないボールは…決して入らない。信じることの難しさと、その有り難さをおもう。